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2006.11.20

いじめとムード

当事者でない私がいじめについて書くなんて、何もわかってないくせに、
と言われるのは覚悟しています。それでも書かずにはいられないのは、
このいじめという問題は無関心を決め込むことが一番良くないことだと
思うからです。

「いじめ」を考えるときに重要なキーワードだと思うのが、雰囲気とか
ムードという言葉。なぜいじめるのかと問われて答える返事は、たぶん
「なんとなく」という言葉ではないでしょうか。なんとなく気に入らない。
なんとなく気持ち悪い。なんとなく、なんとなく・・。そこに確固とした
信念はない。いじめをしなければいけない理由なんて、きっとないと思う。
信念なき悪意が、いじめの正体だと私は考えます。なんとなくいじめてる
なんてことがあっていいのか。そんなつまらない理由で、誰かをどん底に
叩き落していいのか。「なんとなく」なんていい加減な理由がまかり通る
今のこの雰囲気を、この世からなくしてしまうことが、いじめをなくす
一番の解決策です。

人間は社会的な生き物である。それが大人であれ、子どもであれ。社会
通念として認められない行為をあえて犯す人間がどれほどいるのか。
裸で街を歩く人間がいないのは、それをすればその社会で生きていけない
からです。社会から疎外されるほど恐ろしいことはありません。そこまでの
覚悟を持って、いじめをする人間がどれほどいるのか。

しかし現実にいじめは後を絶ちません。それはなぜか。私たちがいじめを
まだどこかで容認してるからではないか。そう真摯に受け止めたほうが
いい。ではどうすれば「裸で街を歩く」と同義になるほど「いじめをする」
ということが、社会通念として認められない行為になるのだろうか。

「いじめによる自殺」と「飲酒運転事故」。最近話題になっているこの2つは
似ています。事件が起こるまでは、加害者自身に加害者としての自覚が
ない点がどちらも同じです。しかし飲酒運転は、あの「福岡幼児3人死亡
事故」をきっかけに劇的に変わりました。あれ以降、飲酒運転は社会通念
として許されない行為になりました。もちろん今までも飲酒運転は許され
ない行為でした。しかしどこかで私たちは容認していたのかもしれません。
それがあの事故を境に、社会のムードが一気に変わりました。飲酒運転で
事故を起こそうものなら、社会の厳しい目が待っています。大半の人が
飲酒運転をしないように心がけるようになったのではないでしょうか。
飲酒運転は許されないものである。そんな当たり前のことが
ようやく当たり前の時代になりました。

いじめについてもまた、社会のムードを変えなければいけないと思います。
飲酒運転のときにできたのだからきっと今回もできるはず。官民一体と
なったキャンペーンが必要ではないでしょうか。特にマスコミ。世論を
つくるのは良くも悪くもマスコミの影響がかなりあります。真実を追究する
手をゆるめないでください。いじめは、いじめる人間が悪い。他の誰のせい
でもない。言い訳は通用しません。いじめた理由について「先生がからかう
から、自分もいじめた」と答えた生徒がいました。その教師にももちろん
問題があるけど、それがいじめを正当化する理由になるはずがない。
マスコミは教師の問題ばかり追及して、いつしか当の生徒については、
追求の手をゆるめてしまってはいないか。それが結果としていじめを容認
することになってはいないか。

いじめは、いじめる人間が悪い。そんなシンプルな真実が曇らないように。
当たり前のことが当たり前の時代になるように。

最後に。あちこちから火の手が上がる山火事をバケツで消せというのは
無理な話。ヘリコプターで上から消火剤を撒いて一気に鎮火させるのが
賢明な方法です。いじめに勇気を持って立ち向かえと言うのは、バケツで
山火事を消せというようなもの。子どもたちが無茶をして、取り返しの
つかなくなる状態にまで追い詰められないように、私たち大人が
今を変えていかねば。この時代の雰囲気を変えていかねば。

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