カテゴリー「これからの考え方」の13件の記事

2008.01.14

思い出MAP

新年にふさわしく、こんなサイトがあったらいいなという夢を
書いてみたいと思います。それは「思い出MAP」。

地図コミュニティが今流行っています。地図にいろんな情報を
付加してみんなで楽しもうというものです。代表的なのが、
グルメマップ。美味しい店をみんなが投稿できることで、
メディア主導ではないクチコミの面白さが魅力になっています。
こういった地図コミュニティは「実用的な情報」という
キーワードでくくられることが多いのですが、そうではなく
個人の思い出が集積された「思い出MAP」があったら、
新しい価値を創造できるのではないかと考えました。

地図コミュニティは、誰でもつくれる時代になってきました。
実際に、そんな「思い出」をキーワードにしたサイトもいくつか
見かけました。でも私が思ってるのとはちょっと違ってました。
個人では限界があるのでしょうか。これは全国津々浦々
書き込まれてこそ面白い。そんなサイトができることを
期待して、ここに書きます。

私がこんなサイトを考えたのには、きっかけがあります。
読売新聞1月9日付の記事、
「思い出のちから(6)記憶の風景でまちづくり 役立つ過去」を
読んだからです。小田原市では「ふるさとの原風景百選」を市民
から募集したそうです。「身近な風景の思い出を書いて投稿する」
という企画に、1200件を超すエピソードが寄せられました。
ひとつの場所に、複数の人が思い出を書いていて、時代も違えば、
思い出も違う。そのことがとても面白かったのです。
「場所の記憶」とでも呼べば良いのでしょうか。そんなものを
もっと読んでみたいと思ったのです。

「個人の記憶」に関しては、ブログというツールのおかげで、
ネットの至るところで、見かけることができるようになりました。
その人について知りたければ、それを見れば分かります。
でもある場所についての記述を探そうとしたら、検索で探すしか
ありません。もし「場所の記憶」が一覧できたら、今までとは
違う時代が来るのではないかと思います。

私の持論に「映画のような人生を送れる人は少ないが、映画の
ようなシーンは誰にでも訪れる」というのがあります。
人生の中で、そんな喜怒哀楽に富んだ鮮やかな場面が、きっと
どこかであると思います。それは映画のワンシーンのよう。
つまり「場所の記憶」をキーワードにその思い出を語れるのです。
そんな名場面を読んでみたいと思いませんか。

待ち合わせスポットにはたくさんの人の思い出があるだろうし、
村の一本杉の下には誰かの秘密の思い出があるかもしれない。
思い出が集積したとき、それは大きな力を持つと思うのです。

どんな場所に人は思い出を持つのか?その結果は街づくりに
反映されるかもしれない。どんな場所を人は愛しているのか?
例えば取り壊される文化財の保護にそれは役立つかもしれない。
みんながその文化財の思い出を書き込めば、どれだけ愛着を
感じているか伝えることができます。そんなムーブメントを
起こすことだって可能だと思うのです。

また、学校などはどうでしょうか。学校というのは不思議な
ところで、建物は変わらないのに、人は毎年入れ替わります。
その思い出はたくさんあるはずなのに、受け継がれることの
なんと少ないことか。その学校の思い出を、卒業生がたくさん
書き込めば、今を生きる学生にも影響を与えるかもしれません。
自分たちの学校に誇りを持つことができます。

また、学校などもそうですが、自分の所属している(していた)
地域に書き込まれていた人と、懐かしい再会をしたり、新たな
出会いがあったりと、コミュニティとしての役割も、このサイト
は果たすことができます。

「場所を愛すること」。それは地域を愛することに他なりません。
それはその地域に住む人を愛することにつながります。
村の長老が歴史を語る「かたりべ」。その現代版が、この
「思い出MAP」なのかもしれません。「かたりべ」不在の
今こそ、こんなサイトが必要だと思うのです。

人と人とのつながりが希薄だといわれる現代。
「人」ではなく、「場所」をキーワードに語ることで、
結果的に、人とのつながりが強くなるのではないか。
新しい年の初めに、そんな夢を見てみました。

※これを書くにあたり、いろいろ調べている中で、
こんな記事を見つけました。面白かったので参考までに。
「街の記憶と思い出コミュニケーション」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.06.11

やさしさの型

最近、江戸しぐさが注目されるようになってきました。その中で
私が面白いと思ったのが「うかつあやまり」。足を踏まれたとき、
踏まれた方も謝るというものです。

足を踏まれたら、踏んだほうが当然謝るべきだと考える自分に
気づいて、ちょっと驚きました。江戸しぐさでは踏まれたほうも
謝るという。その発想がいつのまにか私にはなくなっていました。

足を踏まれて、相手をにらみ、謝るのを待っている自分の顔は、
きっと醜い表情をしていることでしょう。それより、踏まれた自分
のうかつさを謝る「うかつあやまり」は、ずっと大人の対応だと
言えます。自ら一歩引くことで円滑なコミュニケーションを取ろう
とする江戸商人の知恵です。

しかし、これは社会全体が成熟していないと成立しない考え方
です。自分が謝っても相手が謝らないのでは謝り損ではないか、
そう思ってしまいます。交通事故などは、謝ってしまうと過失を
認めたことになるから、謝ってはいけないとよく言われます。
訴訟社会の波が、日本にもすぐそこまで押し寄せてきています。
私たちはどうすべきなのでしょうか?

もう少し素直に謝ろうと、アメリカでは「ソーリー法」と呼ばれる
法律が施行された州もあるそうです。その記事によれば、
交通事故の現場で「アイムソーリー」と謝っても、その言葉を
非を認めた証拠とはしないというもの。「事故を起こしたことを
悔いて謝罪が口をついて出るのは、人間の自然な感情のはず。
裁判で不利にならないよう双方が不機嫌な顔でにらみ合うのは
どうにも窮屈で我慢しがたい」というのが立法趣旨だそうです。
「誠意ある謝罪こそ、訴訟を防ぐ近道」なのだと、
その記事は結んでいます。

日本も将来こんな姿になるのでしょうか?法律で保護されて
やっと謝ることができる社会。なんだか子どもみたいです。
先生に肩を押されて、やっと友達に「ごめんね」と謝るのと
大差ありません。そこで注目したいのが、江戸しぐさの
「うかつあやまり」です。素晴らしい文化だと思います。

そんなものは世界では通用しないよ、と言われそうですが、
世界がいつも正しいとは限りません。「MOTTAINAI」が注目
されたのは、まだ記憶に新しいと思います。世界に誇れる
素晴らしい伝統を私たちは持っているかもしれないのです。

しかし悲しいことに、現代の日本では「うかつあやまり」は通用
しないかもしれません。でも今から子どもたちに教えていけば、
次の世代では当たり前になる可能性だってあります。それには
教育が必要です。みんながみんな同じ行動を取ることができる
なら、譲り合う精神だって生まれるはずです。

やさしさの「型」を、子どもたちにきちんと教える必要があるの
ではないでしょうか?やさしさって、気持ちだろ、うわべだけ
したって意味ないじゃないかと言われそうです。でもやさしさは、
いくら心で思ってたって駄目です。しぐさに現れなければ、
相手に伝わりません。やさしさが失われた今だからこそ、
まずその「型」を覚え、練習するところから始めないと
いけないのではないでしょうか。

サービス業では、朝礼で唱和するところも多いと思います。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」。当たり前
すぎる言葉なのに、なぜいい大人が毎朝みんなで声を
そろえて繰り返すのでしょうか?それはいざという時、
その言葉が出ないからです。だから練習しているのです。
やさしさだって、きっと同じだろうと思うのです。

最近私が気になってるのは「世界に一つだけの花」が大ヒット
したことで、オンリーワン思想とでもいうべきものが、一人歩き
してしまったことです。「僕は僕らしく」あればいいと、そんな
考えが世の中の主流になっているように思えます。
あまのじゃくな私はどこか引っ掛かるものを感じてたのですが、
ようやくこのことに気づきました。「僕は僕らしく」ある前に、
まず「僕は人らしく」あるべきではないか。

昨今のモラルの低下をもたらしたのは、安易な個性の尊重では
ないかという気がします。人らしくなくて、個性や自由だけ主張
するのは、単なるわがままです。私たちはそんな当たり前の
ことが当たり前じゃない時代を、生きていかなければいけません。

まずは、やさしさの「型」を覚えること。学ぶの語源は
「真似ぶ(まねをする)」だそうです。良いところをどんどん真似
していく。そうやって体に覚えこませるのです。アーティストが
最初から個性的だったわけではありません。最初はみんな
基礎を繰り返す中で、自分の個性を伸ばしていったのです。

やさしさの「型」を繰り返していく中で、自分の持っている
やさしい気持ちを、それに乗せていってください。
きっと相手に伝わるはずです。

そのやさしさはあなただけのオンリーワンです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.12.17

地域親制度

ここから何かが始まるのを期待してこの文章を書きます。

地域と家族と学校が連携して、子どもたちを育てることは
できないでしょうか。私はそんな未来を想像します。

昔の大人と今の大人。よく言われるのは、昔の大人は他人の
子どもであっても自分の子どものように叱っていた、それに
比べて今の大人は・・という論調です。それについて異議を
唱えたいと思います。それじゃ昔の大人は勇気があって、今の
大人には勇気がないのでしょうか。いや、そうではありません。
今も昔も大人はそう変わりません。子どもたちの振る舞いに
感じることはきっと同じはずです。違うのはたぶん時代の空気です。
個人の自由や権利が声高に語られる今の時代。昔の大人が
今の時代にタイムスリップしたなら、どんな行動を取るでしょうか。
きっと今の大人と同じ行動を取るような気が私はします。

そんな時代を生きる私たちにできることはないのか。
そう考えたとき、ふっと思い浮かんだのが名付け親や仲人といった
制度。第三者でありながら擬似的な血縁関係を結ぶことができます。
これならわが子のように叱ることもできるはず。この手法を現代に
生かせないかと思って考えてみました。それが「地域親制度」です。
※私が今、勝手に名づけました。

こんなプランはどうでしょうか。小学校に入学した生徒は、まず一人
一人に地域親をそれぞれ紹介される。この地域親が小学校6年間を
通して後見人のような役割を果たすわけです。昔のようにはいかない
までも、まずそこでわが子のように叱る権利をもった大人が少なくとも
一人いる状況がこれで出来ます。

地域親には、地元の商店で働く方がふさわしいと私は考えます。
毎年は無理にしても、数年おきにそのお店で「社会見学」を行なうのです。
いや、「勤労経験」といったほうがいいかもしれません。今の子どもたちに
必要なのは、社会とつながること。社会経験を積むことです。自営業で
なければ、親の働く姿を子に見せることは、なかなかできるものでは
ありません。大人が働く姿を見せること、そして実際に働いてみることで、
子どもにとっては他では得がたい経験を学び取ることができるのでは
ないでしょうか。低学年はお店の見学、中学年は販売、高学年は販売
および初歩的な経営の仕組みなど、学年に応じてステップアップする
ことも可能です。

そして地域親の元で勤労した経験を感想文に書いてもらいます。
子どもにその経験を考えさせるのが目的ですが、同時に教師の目に
触れるわけですから、子どもだけでなく地域親も真面目に取り組む
仕組みにもなります。

さて「勤労」という以上は、働いた対価を払わねばなりません。
それでこそ「働く」という意味が初めて分かると思うのです。だからと
いって、子どもに現金を手渡すのはちょっと生々しすぎるという場合は、
地域通貨で払うという方法もあります。その地域またはその商店街で
使える地域通貨で払うことで、地元に還元することが可能です。
子どもにとっても地域親にとっても悪い話ではないと思います。

さらに言えば、この取り組みは地元の商店にとっても大きなメリットが
あるはずです。地元の商店にとってお客さんとは、当然地元の人たち
です。地域親に名乗り出れば、その子どもの親ともつながりができます。
郊外の安売り店で買ってたその親が、地域親のお店で買うようになる
かもしれません。また子どもたちのネットワークも無視できません。
あそこのお店のおじさんおばさんは親切で感じが良いからあそこで
買おうという評判が広まれば、子どもも買うし、そのバックには親もいる
わけですから、これは商売のチャンスにつながります。

地域親として子どもを見守ることは、子どもたちが大きくなったときにも
良い影響を与えてくれると思います。地元の就職率も上がるかも
しれません。でも何より子どもたちにとって大切なのは、親や教師など
直接利害のある人には相談しにくい内容でも、第三者である地域親には
相談できるかもしれないということです。頼れる人が近くにいることほど、
心強いものはありません。また地域親も、以前のように漠然と子どもを
見るわけではありません。自分が見守っている子どもはもちろんのこと、
その友達にも目が届くようになり、そんな地域親たちの存在があれば、
いじめを許さない空気を作り上げることにもなります。

親からは学校に対して言いにくいような意見でも、地域親ならずばりと
言えるかもしれません。「母親参観日」「父親参観日」と同じように
「地域親参観日」なども作れば、第三者の目から学校を客観的に
見ることができて、閉鎖的になりがちな学校も、風通しが良くなって、
より良く変わるきっかけになるかもしれません。

社会を変えるのは、こんなちょっとした仕組みなのだと思います。
私たちがためらっている一歩を踏み出せるような仕組みづくり。
それが時代の雰囲気を変えるきっかけになるでしょう。

地域と家族と学校が連携して、子どもたちを育てる。
私はそんな未来を想像します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.12.04

いじめの処方箋

「純粋」という言葉の裏に、危うさを感じるのは私だけでしょうか。
外の世界から子どもたちを守っている、その学校で何が起きているのか。

いじめを克服するために、これからの学校はどうあるべきか、
私なりに考えてみたいと思います。

以前、ハンセン病の元患者が、学校で講演会を行なった新聞記事を
読んだことがあります。「人間はなぜ差別をするのですか」という
学生の問いかけに、その人はこう答えました。「心が弱いから」と。

その答えに衝撃を受けた私は、そのことを記事にしました。そして
私たちがすべきこととは何かを書きました。それは「まず私たちは
心の弱い人間だと自覚すること。そしてその心の弱さは差別を生むと
いうことを知ること」だと。これはそのまま、いじめにもあてはまること
ではないでしょうか。

人間は本来、差別やいじめをしたがる生き物なのかもしれません。
相手を蹴落とし、自分が優位に立つことで身の安全を図り安心したい
と考える生き物。優位に立たないまでも、大多数と同じでありたいと
願う生き物。私たちはそんな人間だと自覚することから、この問題を
考え始める必要があるのではないでしょうか。いじめをなくすことは
できないかもしれません。我々はそんな人間なのですから。でも
克服することならできるかもしれない。そこに希望があります。

ではどうすれば、いじめを克服できるか。私が心配しているのは、
今の学校の構造です。外の世界から子どもたちを守ってくれて
いますが、それは同時に学校の中が社会から隔離された存在でも
あることを意味しています。いわば学校の中は純粋培養の世界で
あると言えるのではないでしょうか。そこで増殖されるものは何なのか。
悪しきものが増殖されるのを、防ぐ方法はないのか。

大人の世界でいじめが問題になることがそれほどないように思える
のはなぜでしょうか。子どもの頃あれほどいやな奴が、大人になると
憑き物が落ちたように、真人間になったりするのはなぜでしょうか。
ヒントはそこにあるように思えます。年をとって人間が丸くなったから
だと答える人もいるでしょう。それもあると思います。でも大きな
要因は、社会に触れて経験を重ねたからではないでしょうか。
社会性とは「他人との関係など、社会生活を重視する性格」だと
辞書に書いてありました。辞書の説明どおりであれば、社会性の
ある人間はいじめはしないものだと言えます。大多数の大人が
いじめをしないのは、社会性があるからです。

人間は社会的な生き物である。だけど、社会性は生まれながらに
身に付いているものではありません。社会に触れ、経験を重ねる
ことによって、身に付くものです。子どもたちがどうすれば社会性を
身に付けられるか、私たち大人は模索しなくてはならないのでは
ないでしょうか。外の世界から隔離された今の学校ではいじめを
克服するのは難しいと思います。だからといってむやみに社会に
開いてしまうと、外から危険な人物がいつやって来ないとも
限りません。子どもたちが社会に触れるにはどうしたら良いのか。
無防備に社会に「開く」のではなく、安心安全なところを選び、
社会と「つながる」必要があるのではないでしょうか。社会と
「つながる」学校づくりが、今求められていると私は考えます。

いじめに効く特効薬はありません。社会と「つながる」学校づくりを
推進することが、漢方薬のようにじわじわと効いて、悪しきものの
増殖を抑える強い体質に、きっと改善してくれると信じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.11.20

いじめとムード

当事者でない私がいじめについて書くなんて、何もわかってないくせに、
と言われるのは覚悟しています。それでも書かずにはいられないのは、
このいじめという問題は無関心を決め込むことが一番良くないことだと
思うからです。

「いじめ」を考えるときに重要なキーワードだと思うのが、雰囲気とか
ムードという言葉。なぜいじめるのかと問われて答える返事は、たぶん
「なんとなく」という言葉ではないでしょうか。なんとなく気に入らない。
なんとなく気持ち悪い。なんとなく、なんとなく・・。そこに確固とした
信念はない。いじめをしなければいけない理由なんて、きっとないと思う。
信念なき悪意が、いじめの正体だと私は考えます。なんとなくいじめてる
なんてことがあっていいのか。そんなつまらない理由で、誰かをどん底に
叩き落していいのか。「なんとなく」なんていい加減な理由がまかり通る
今のこの雰囲気を、この世からなくしてしまうことが、いじめをなくす
一番の解決策です。

人間は社会的な生き物である。それが大人であれ、子どもであれ。社会
通念として認められない行為をあえて犯す人間がどれほどいるのか。
裸で街を歩く人間がいないのは、それをすればその社会で生きていけない
からです。社会から疎外されるほど恐ろしいことはありません。そこまでの
覚悟を持って、いじめをする人間がどれほどいるのか。

しかし現実にいじめは後を絶ちません。それはなぜか。私たちがいじめを
まだどこかで容認してるからではないか。そう真摯に受け止めたほうが
いい。ではどうすれば「裸で街を歩く」と同義になるほど「いじめをする」
ということが、社会通念として認められない行為になるのだろうか。

「いじめによる自殺」と「飲酒運転事故」。最近話題になっているこの2つは
似ています。事件が起こるまでは、加害者自身に加害者としての自覚が
ない点がどちらも同じです。しかし飲酒運転は、あの「福岡幼児3人死亡
事故」をきっかけに劇的に変わりました。あれ以降、飲酒運転は社会通念
として許されない行為になりました。もちろん今までも飲酒運転は許され
ない行為でした。しかしどこかで私たちは容認していたのかもしれません。
それがあの事故を境に、社会のムードが一気に変わりました。飲酒運転で
事故を起こそうものなら、社会の厳しい目が待っています。大半の人が
飲酒運転をしないように心がけるようになったのではないでしょうか。
飲酒運転は許されないものである。そんな当たり前のことが
ようやく当たり前の時代になりました。

いじめについてもまた、社会のムードを変えなければいけないと思います。
飲酒運転のときにできたのだからきっと今回もできるはず。官民一体と
なったキャンペーンが必要ではないでしょうか。特にマスコミ。世論を
つくるのは良くも悪くもマスコミの影響がかなりあります。真実を追究する
手をゆるめないでください。いじめは、いじめる人間が悪い。他の誰のせい
でもない。言い訳は通用しません。いじめた理由について「先生がからかう
から、自分もいじめた」と答えた生徒がいました。その教師にももちろん
問題があるけど、それがいじめを正当化する理由になるはずがない。
マスコミは教師の問題ばかり追及して、いつしか当の生徒については、
追求の手をゆるめてしまってはいないか。それが結果としていじめを容認
することになってはいないか。

いじめは、いじめる人間が悪い。そんなシンプルな真実が曇らないように。
当たり前のことが当たり前の時代になるように。

最後に。あちこちから火の手が上がる山火事をバケツで消せというのは
無理な話。ヘリコプターで上から消火剤を撒いて一気に鎮火させるのが
賢明な方法です。いじめに勇気を持って立ち向かえと言うのは、バケツで
山火事を消せというようなもの。子どもたちが無茶をして、取り返しの
つかなくなる状態にまで追い詰められないように、私たち大人が
今を変えていかねば。この時代の雰囲気を変えていかねば。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.06

天気読み

未来はどうすれば分かるだろうか?
そんなことを考える2つの出来事がありました。
ひとつは夕立にあって困ったこと。
ひとつは同僚が退職すると知ったこと。
未来は本当に分からないのでしょうか?

日曜の夕方、ユースケとコンビニに行きました。
向こうの空が黒くなっていたけど、
その時は気にも留めませんでした。
コンビニを出ると、ポツポツ雨が降り始め、
家までもう少しのところで本降りになり、
とうとう雨宿りせざるをえなくなりました。
始めははしゃいでたユースケも降り止まない雨に
元気がなくなってきました。はしゃいで遊ぶから、
髪の毛や服が濡れてしまい、長時間このままだと
風邪を引いてしまいそうです。

雨がいつ止むのか、天気を読もうとする私。
天気がどうなるかなんて分かるはずもないのに、
一生懸命いろんなことを考えていました。
雲の動き、風の向きや強さ、雨脚など、
知識と経験と勘を総合的に働かせるしかありません。
結局、しばらく雨は止まないと判断して、
小雨になるのを待ち、ユースケを抱えたまま走って
帰りました。その後、また激しく降り出したので、
どうやら判断は正しかったようです。

退職するN君は私より若いけれど、優秀な人材。
管理職になり、重要な得意先を任されて、順調だったのに、
ある日その得意先に問題が起こりました。
その問題はこちらとは関係ないものだったけど、
でもそれがきっかけで、取引がなくなり、課は解散。
N君は一営業に戻ることになりました。
本人の努力とは全く関係ないところで運命が変わるのを
目の当たりにしました。N君は上に立ってこそ本領を
発揮する人物だと思っていたので、早く元に戻ることを
願っていたけど、退職することになり、とても残念です。
ただ、N君もこのままここに留まることと、退職して
新しい道を進むことと、どちらが良いのか必死で考えた
末の結論なのでしょう。N君のこれからの人生が
より良いものであることを願っています。

この2つの出来事、どこか似ていると感じました。
それは本人の意思とは関係のないところで、
運命が決まっていたということです。
私がどう思おうが、天気は決まってただろうし、
N君がどんなに頑張っても、得意先自体の問題は
起きていたことでしょう。

未来に起こる出来事は、起きるべくして起きている。
そんなふうなことを考えてしまいました。
そこに自分が居合わせてるかどうか、
その違いが運命を分けるのでしょうか?

未来を見通せる力があるならば・・
そんなことを考えてしまいました。
未来とはいったい何でしょうか?

環境問題、高齢化社会。これは現実に起きる未来の問題。
でもその原因は過去にあります。私たちの行ないの結果が、
こういった問題を引き起こしているのです。

未来に起こる出来事の大半は、
過去にその原因があるのではないでしょうか?
突然何の理由もなく、何かが起こるわけではなく、
そこには大小なりとも原因があるはずです。
つまり、過去が未来をつくるのです。

それでは未来は変えられないのかといえば、
そうではないと私は思います。

未来とは確定されていない時間であり、
現在とは時間が確定される瞬間で、
過去とは確定された時間の積み重ねのこと。
時間はそうやって流れていきます。

つまり、過去とは現在の積み重ねです。
現在をどのように生きるのかが
とても大切なことだと思います。

より良い過去をつくることが、より良い未来をつくります。
過去は変えることができません。そのために近い未来は
悲しい出来事が待ち構えてるのかもしれません。
でも、現在を生きる私たちはどのように生きるのか、
選択することができます。それがこれからの過去を
良いものにしていき、これからの未来を良い方向に
導いていくのだと信じます。

明るい空のように未来が広がってゆくように。
心からそう願っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.06.10

新しい公園づくり

小倉の繁華街に堺町公園という公園があります。
とても特殊な公園だと思うので紹介したいと思います。
どこが特殊かといえば、行ってみれば分かります。
公園の敷地の4分の1近くが削り取られ、
そこに大きな2階建てのプレハブ小屋が建ってるからです。
実はこれ、巨大な交番というか警官詰所なのです。

堺町公園は、今の小倉を象徴しているような公園です。
2年前の暴力団員によるクラブ襲撃事件は、小倉の市民に
とっては記憶に新しい事件です。これを受け、2年前の
12月に警官詰所が誕生。取り締まりが強化されました。

そしてもうひとつの動きは「堺町公園 水曜コンサート」。
明るい街づくりの一環として、1年前から始まりました。
市民に親しまれるイベントとして着実に成果を上げています。

小倉が抱える問題とその取り組みが、この堺町公園に
集約されているようで、とても興味深い公園です。

それでは、私からも提案させてもらいます。
新しい公園づくり、そして街づくりを。

「堺町公園 水曜コンサート」を見て思ったのは、
こんなに人が集まるんだなあということ。
平均すると200人ぐらいの人が集まってるようです。
これだけ人が集まるなら、他のこともできそうです。
例えば花壇を用意して、市民に開放するというのはどうでしょうか?

希望者には、花壇の小さなスペースを貸し出すのです(有料でも可)。
そうすれば、お昼休みに水をやりに自然とみんなが集まります。
週に1度程度、お昼休みにそれぞれの育ち具合を見ながら
講習会などやってみてはどうでしょうか?ここで活躍するのが
シニアボランティア。高齢者の方の知恵と経験がここで生かされます。
公園の花壇だけに限らず、家の庭やベランダガーデニングなども
相談できるかもしれませんね。私は植物を育てるのが下手なので
気軽に相談できる人がいるとどんなに助かることか。
業者やボランティアの方たちの手で綺麗に整備された花壇も良いけど、
「育てる公園」という考え方があっても良いのではないでしょうか?
そうすることで、高齢者の方とオフィスで働く人との交流も生まれる
のではないかと思われます。

そしてもうひとつの効果が、オフィスで働く人たちが外に出て
公園に集まることで、自然とそこでも交流が生まれることです。
世代や業種が異なる人たちが集まることで、地域が活性化される
のではないでしょうか?

今、おしゃべりの効用が見直されています。
 職場での雑談やおしゃべりを「インフォーマル・コミュニケーション」
 と呼び、積極的に推奨するオフィス作りが企業の間で広がっている。
(6月7日付の読売新聞「おしゃべりのススメ」より)

「社員の偶然の出会いが生産性を上げる」と紹介されていました。
「従業員のいろいろな知恵や知識が縦横に交わることで、新たな価値が
 生まれることがわかってきた」とも。
この記事は企業の話だけど、地域の活性化という視点で考えてみても
面白いのではないでしょうか?つまりそのためのスペースが公園です。
それが都市における公園の新しい役割なのかもしれません。
企業という縦軸だけで考えるのではなく、そこに地域という横軸を
加えることで、新しい価値が生まれてくる可能性があります。

考えてみれば、私たちは今までオフィスに閉じこもってたのかもしれません。
オフィスは例えて言うなら学校のクラスのようなものかも。
朝から夕方まで授業を受けるように、自由な時間はなかなか取れません。
でもお昼休みは校庭に出て遊ぶように、公園に出かけてみましょう。
新しい出会いが待ってるかもしれません。
そのための新しい公園づくりが始まることを期待して、
ここに提案を書かせてもらいました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.06.03

その向こう側

先日、得意先の新店オープンの応援に行ってきました。
応援といっても内容はいたって簡単。風船くばりです。
子ども達に風船をくばるわけですが、これが楽しーのですよ。
子どもも喜ぶ、お母さんも喜ぶ。私も楽しい。
もう何といっていいか至福の時間です。

私の仕事はふだん消費者の方たちと直接関わることがありません。
得意先の担当者から間接的に聞くぐらいです。だからこんな機会が
あるとすごく新鮮な気持ちになります。自分がやってる仕事は
この人たちに喜んでもらえることなんだと実感がわくのです・・。

周りを見渡せば、世の中はやりきれない事件で溢れています。
企業ぐるみの背信行為、個人の凶悪犯罪etc,etc。
なにがそうさせるのか?マスコミはこぞって取り上げます。
でもそのどれもがなにか大切なものを忘れてる気がするのです。

私がオープンの応援に行って感じたことと、
それは少なからず関係があるような気がします。

世の中は学力や個性重視で、想像力はさほど問題にされません。
読みが同じだから「創造力」と混同されがちですが、
「想像力」とは文字通り想像する力です。見えないもの、
聞こえないものを、思い描く能力のこと。言葉を変えれば
「想像力」とは「思いやる力」といってもいいでしょう。
今、それが欠けているのではないでしょうか?

企業ぐるみの背信行為は、自社の利益を追求するあまり、
生活者のことなど二の次で顧みなかったことによるものです。
生活者といったって、それは一人一人の個人であって、
みんなそれぞれ違う顔を持つ人間です。その人にはその人なり
の生活があり、夢があり、生きがいがある。そのことがどうして
分からないのか?どうして思いやれないのか?

個人の凶悪犯罪は、自分のことのみに没頭して、自分中心の
規律に従って行動したり、それに合わないものを排除しようとして
起こるものではないでしょうか。傷つけることがどんなことなのか、
そうすることが自分に、相手に、周りに、どんな影響を及ぼすのか、
思いやることができない。だから事件が起こって、全てが終わって
初めて自分の起こしたことの意味を知ることになる。なぜその前に
そのことが分からないのか?どうして思いやることができないのか?

考えることの大切さを伝えたい。
あれはダメ、これはダメと教えて、型にはめようとしたって、
そこからはみだすものがきっとある。でも、それは仕方のないこと。
価値観さえ揺らぐような不安定な時代なのだから。
今、私たちがすべきことは思いやること。想像力を豊かにすること。
すべてのことはその先にいる「人」につながっている。
電話やチャットや仕事で使う書類一枚にしたって・・。

その向こう側にあるものに思いを巡らそう。
きっとできるはず。私たちは想像力を持つ生き物なのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.04.03

旅するデジカメ

新聞の文化欄を読んでたらこんな紹介が載ってました。
「友人5人で順にノートに近況を書き、郵便で回します」
とのこと。面白いなあと思いました。
自分の近況を書き、友達にそれを送る。その友達がまた
近況を書き、次の友達に送る。自分の手元に戻ってきたら
みんなの近況がそのノートに書いてあるわけですね。
いつ頃自分の手元に戻ってくるのか、そのノートにみんなは
どんなことを書いているか、想像しながら待つわけです。
これって楽しいですよね?

この記事を読んで私はあることを思い出しました。
待てよ、これに似た感覚は覚えがあるぞ、と。
それはもう6~7年前の遠い昔の記憶です。
いまでこそデジカメは一家に一台といった感じで普及してますが、
当時はまだ持っている人のほうが少ない時代でした。
私は大学サークルOBのネットワークで盛んに活動していました。
確か私はその時すでに九州に戻っていたと記憶してます。
東京に住んでるOBたちが飲み会をすると聞いて、
私はこう提案しました。「デジカメ送るから、撮って送り返して!」

今から考えるとずいぶん無茶なことを考えたものです。
デジカメ本体を梱包して送ろうというのですから。
今なら誰かがデジカメ持ってるだろうし、撮ったらネットに
アップすればいつでもみんなが見ることができます。
それが効率的で便利なやり方です。でも・・と私は思います。
デジカメ本体を送るというアナログな方法は、不思議なことに
6~7年経った今でも私にとって魅力的なものに感じるのです。

想像してみてください。デジカメ本体を梱包して送る時の気持ちを。
無事に届くだろうか?ちゃんと撮ってくれるかな?どんな写真だろうか?
いつ頃こちらに送り返してくれるだろうか?楽しみだ!
そうやって、わくわくしながら待つ気持ちは格別です。

それは、冒頭で紹介した新聞の文化欄を読んだときに
感じたものときっと同じなはずです。あちらはノート、
こちらはデジカメの違いはありますが。

そこで思いつきました。ノートの代わりにデジカメにしたらどうだろうか?
全国に点在するOBの間で、順にデジカメで写真を撮り郵便で回すのです。
一巡すれば全国に散らばるOBの写真がデジカメに収められるわけです。
一台のデジカメがOBからOBの手に渡り、写真が増えていく。
まるでデジカメがOBを訪ねて旅をするみたいに思えます。
題して「旅するデジカメ」っていうのはどうでしょうか?

そんな面倒くさいことしなくても、ネットを使えばもっと簡単なやり方は
いくらでもあります。でも私はこのアナログなやり方に惹かれるのです。
なぜでしょうか?私だけかな?

一巡してデジカメに収められた写真は、今のOBたちの姿を写し出すはず。
それは大学を卒業して違う道を歩き始めたOBたちの「今」そのものです。
家族で写ってたり、独身のままだったり。雰囲気ががらっと変わってたり、
相変わらずだったり。寒いところだったり、暑いところだったり・・。
デジカメはOBたちの間を旅します。私たちはデジカメが旅をしている間は
ただ待てばいいのです。楽しみにしながらね。

思えば私たちは「待つ楽しさ」を奪われてしまった世代なのかもしれません。
昔は手紙のやり取りを楽しんでいました。でもパソコンでメールするようになり、
相手がパソコンを開けばいつでも読んでもらえるようになりました。
そして携帯メールでは、いつでも相手の携帯に届いて着信音で知らせます。
すぐに返事をするのが携帯メールの常識だとも聞きます。
世の中は便利になったけど、そのぶん余裕がなくなったような気がします。
本当のぜいたくとは「待つ楽しさ」のようなものではないでしょうか?
奪われてしまったのなら、私たちが新しく作ってあげたらいい。
そう思いませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2004.03.07

観覧車とソリューション

突然ですが、こんな質問を考えてみました。

 観覧車のある施設で働くあなたが、
 上司から次のような課題を出されました。
 「観覧車の利用客を増やすにはどうすればよいか?」
 あなたならどうするでしょうか?

さてどうしますか?と、なぜこんな質問を考えたかといえば
2月26日付の読売新聞のある記事が目に止まったからです。
それは北九州にあるテーマパーク「スペースワールド」
あるものができたという記事です。でも観覧車とは直接関係ありません。
その記事にはこう書かれていました。
「スペースワールドに「ナスカ地上絵」出現」
園内の舗装が改修されたのを機に「何か面白い仕掛けを」と、
スペースワールドが企画したそうです。実物の約1/3の大きさで、
地上からは何が描かれてるかはっきりは分からないけど、
観覧車に乗るとナスカの地上絵が見えるそうです。

これを読んで、私は強烈にこの観覧車に乗りたくなりました。
ナスカの地上絵を疑似体験できる機会なんてそうそうあるもんでは
ないでしょう?見てみたいじゃないですか。

面白い企画だと思いました。観覧車に何かするわけでもないのに、
結果として観覧車に乗りたくなる企画です。しかもあまりお金も
掛けずに済んでいそうです。

今回は舗装改修のついでに企画されたようですが、これがもし
冒頭に私が書いた質問のように、観覧車の利用客を増やす方法として
企画されたものだったら、素晴らしい発想だと思いませんか?
表彰状をあげたいぐらいです。

観覧車の利用客を増やす方法は他にもあります。
例えば同じく北九州で、観覧車のあるショッピングモール
「チャチャタウン」では透明の観覧車が登場しています。
36あるゴンドラのうち2つが透明です。
これも一度は乗ってみたいと思わせるものです。

ここまで書いて気がつくのは、どちらも観覧車の利用客を増やす方法
なのに、アプローチとしてはずいぶん違っていることです。
ソリューション(課題解決)の方法として考えても面白い事例です。
比較的思いつきやすいのは、透明の観覧車のほうでしょう。
課題となる対象物(観覧車)をじっくり観察して分析することで
「透明の観覧車」という発想にたどり着くことは可能でしょう。
しかし「ナスカの地上絵」はどうでしょうか?
いくら机の上で考えても決して思いつかない発想です。
この場合、実際に観覧車に乗り、そこから景色を見ながら
「ここから何か面白いものが見えないかな?」と思わない限り
出てこない発想ではないでしょうか?直接、観覧車とは
関係ないけど、でも観覧車に乗りたくなるユニークな発想です。

生真面目な日本人は、対象物を見て考えるのは得意ですが、
全く別の視点から物事を考えるのは苦手なようです。
※「ナスカの地上絵」は、対象物から見て考える方法ですね。
日本の景気も落ち込んで随分になりますが、景気が悪いから
財布のヒモを締めようと考えるばかりではダメな気がします。
直接景気とは関係ないけど、こうすれば景気も回復するんじゃ
ないか、という観点からの発想も必要ではないでしょうか?
落ち込んだ景気のどてっぱらに風穴を開けるような斬新な企画、
あなたも考えてみませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧