「加藤裕三の遊びと手仕事展」
先日、周南市美術博物館に「加藤裕三の遊びと手仕事展」を
見に行きました。きっかけは展覧会のポスターです。
カラフルでシンプルな、そしてどことなくユーモラスなおもちゃが、
ポスターの中に、見てくれ!と言わんばかりにレイアウトされて
いて、すごく楽しそうだったのです。
サブタイトルは「グリコのおもちゃからカラクリ人形まで」。
そうか、これはグリコのおもちゃなのか。見てみたい!
子どもたちもきっと喜ぶだろうと思い、見に行くことにしました。
とても楽しい展覧会でした。展示されているおもちゃは見ている
だけで楽しいし、少ないながらもおもちゃで遊べるコーナーも
あったので、子どもたちも満足したようでした。
私は作者である加藤裕三(1950-2001)のことをそれまで
知りませんでした。でもこの展覧会を見て、とても興味を
覚えました。すごく魅力的な人物です。おもちゃのことを、
そしてその遊び相手である子どものことを、こんなに考えて
いる人は、他にいないのではないでしょうか。
ひとつのことを一生懸命考えていると、そのことだけに
とどまらず、いつのまにかそこから突き抜けて、普遍性を
持つようになるのかもしれません。おもちゃのことを語って
いながら、それは現代を生きる私たちが忘れてしまっている
大切なものを教えてくれているような、そんなメッセージの
ようにも思えるのです。
加藤裕三が作りたかったおもちゃとは、
>ごく簡単でしくみの見えるもの、人をおどさないもの、
>で、小さくても存在感が在るものができたらいいなぁ・・。
だったそうです。
展覧会の解説にはこんな文章が載っていました。
>加藤は、子どものためのもの、子どもと一緒におもちゃが
>自由に動けることこそ「生きたおもちゃ」の条件と考え、
>跳ぶ・はねる・走る・転がる・揺れるなど単純な動きを
>おもちゃの中に表現しました。また、子どもが遊ぶときに
>おもちゃを分解したり、こわしたりして、そのおもちゃの
>しくみ(なぜ動くのか)がわかることも必要だと考えました。
遊ばれてこそ、おもちゃ。加藤裕三はこうも言っています。
>玩具にとっても、望まれ、得られ、遊ばれ、こわされ、
>すてられ、忘れられ、思い出されるということのすべてが、
>内在的な価値を持つのだと信じられる。
おもちゃとは、遊ばれることによって初めて「生きたおもちゃ」
になる。それがいずれ捨てられる運命でも、遊ばれたおもちゃ
というのは、子どもの中で小さな何かを残すのかもしれません。
その小さな何かが、豊かな心を育むのではないかと思います。
たかがおもちゃ、されどおもちゃ。加藤裕三のクリエイティブ
ノートを見たとき、1点1点のおもちゃに込められた思いを
知ることができます。こんなにいろんなことを考えて作ってる
のかと本当に驚きました。でも出来上がったおもちゃからは、
押しつけがましいところは一切ありません。その思いはおもちゃ
に内包されています。そんなおもちゃに子どもが出会えたら、
それはとても幸せなことだと思いました。
加藤裕三はこんな言葉を残しています。
>グリコのおもちゃの試作品は、木を削ってつくったものです。
>粘土ではない、木を削りだしてつくるからこそできるフォルム
>がある訳です。それをもとに何十万個もの樹脂のおもちゃが
>出来上がる訳ですが、その形に、木から削りだしたという
>記憶を残すことは、とても大切なことだと思うんです。
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