2007.07.16

検証!『海を見ていた午後』

機会があれば載せたいとずっと思ってた日記があって、
なかなかその機会がありませんでした。でもけっこう
好きなエピソードなのでかまわず載せてしまいます。
今度「シャングリラ3」見に行くことですし。

ずいぶん前に横浜に行った時でのお話です。
では、どうぞ。

(以下原文そのまま)
2001年5月25日の日記
「検証!『海を見ていた午後』」

横浜に足を運ぶ機会があれば、私にはどうしても
確かめておきたいことがあった。

まだユーミンが松任谷由実ではなく、荒井由実だった頃の
曲で『海を見ていた午後』という歌がある。初期の名曲で
ある。歌詞の内容は、恋人と別れてしまった主人公が、
2人の思い出のレストランを1人で訪ねて、そこからの
景色を眺めながら、遠いあの頃を振り返るというものだ。
その歌詞に出てくる「ドルフィン」というレストランは
実在していて、ユーミンに歌われたことによって一躍
有名になったという話を、何かで読んだことがある。
その「ドルフィン」が横浜あたりにあるらしい。昔から
気になってたことを確かめるチャンスがやってきたのである。

1.山手にある「ドルフィン」の"ソーダ水の中を貨物船が
 とおる"というが、それはホントに見えるのか?
2.「ドルフィン」では"晴れた午後には遠く三浦岬も見える"
 というが、それはホントのことなのか?
(注:こんな内容の歌詞が出てきます)

”山手のドルフィンは静か~なレストラン~♪”てなわけで、
実際に行ってみた。横浜から少し離れたJR根岸駅で降り、
徒歩10分のところに「ドルフィン」はある。小高い丘の上に
建っているため、坂を上らなければならず、けっこうしんどい。
お店に入ると、さすがに眺めが良いのをウリにしているだけは
あった。海が見える正面と側面は、全面ガラス張りである。
天気も良かったため、その眺めは素晴らしいものだった。
高台から海を見下ろすと、左側にコンビナートがあり、海の上
にはヨットが浮かび、遠くに貨物船も見える。おお!貨物船だ!

そこで、さっそくドルフィンソーダなるものを注文した。
ソーダ水は、やはりこのお店の定番であるらしく、周りを見ると
同じものを注文してる人がかなりいた。ユーミンの影響力や、
おそるべし!まずは第1の疑問を確かめてみることにした。

1.山手にある「ドルフィン」の"ソーダ水の中を貨物船が
 とおる"というが、それはホントに見えるのか?

ソーダ水をテーブルの中央に置いてみた。ソーダ水の中を
通して、貨物船を見ようと目を凝らしたが、実際には見る
ことはできなかった。なぜなら、グラスの表面に水滴が
付いていたからだ!見えるわけがない。こんな当たり前の
ことに今まで気が付かなかったとは迂闊な話である。
ソーダ水の色で、余計見えにくいという事もあるが、
それ以前の問題のような気がする。

また、仮に見えたとしても、その場合かなり不自然な姿勢に
なることも発見した。見ようとすれば当然、ソーダ水に目線を
合わせる必要があるため、テーブルに顔をかなり近づけなければ
ならない。もし歌詞の通り、一人で来てそんなことをしていたら、
それはかなり怪しい人物だと言わざるを得ない。

そして次に、第2の疑問を確かめる作戦に出た。

2.「ドルフィン」では"晴れた午後には遠く三浦岬も見える"と
 いうが、それはホントのことなのか?

窓際の席に座り、外を見まわすが、三浦岬らしきものは見えない。
晴れた午後なのに、見えないということは、よほど視力の良い人
でないとムリなのか?手を上げて、ウェイターを呼び止めた。
「三浦岬はどこですか?」「はあ?」
何だ、このウェイターは?「ドルフィン」といえば、三浦岬を
知ってるのが常識だろう。勉強不足だな!そう憤慨していると、
「三浦岬ですか?三浦半島のことだったら、横須賀があるのが
 三浦半島ですから、方角が全然違いますよ」とウェイターが
答えてくれた。どうやら三浦岬というものはないらしい。
三浦半島ならあるが、横須賀がすっぽり含まれるようなでっかい
半島だから、仮に見えたとしても岬のイメージには程遠い。
かなり恥ずかしい思いをして聞き出したのだが、「三浦岬」は
ユーミンのイメージの産物であるらしいことが分かった。

その他にも、"紙ナプキンにはインクがにじむから"忘れないでって
書くのがやっとなのか?とか(こんな内容の歌詞も出てきます)、
確かめてみたかったけど、それをやると、さっきのウェイターから
「出ていってください」と言われそうなので涙を呑んで我慢した、
海を見ていた午後だった。

Dolphin

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2007.01.18

あと半分ある!

新年にふさわしい文章を、昔書いた日記に見つけました。
あらためて読んでみると、過去の自分から今の自分に
宛てた手紙のように感じました。気持ちも新たに
今年も意欲的にがんばりたいと思います。

(以下原文そのまま)
2003年3月19日の日記
「あと半分ある! 」

先日NHKで放送された「松任谷由実の軌跡」を見た。
この番組は、本人がデビューからの30年の軌跡を
振り返るという内容だった。

その中でとても印象に残った言葉がある。
それは、荒井由実の名前で行なった1996年のコンサートに
ついてのことで、なぜその時期に自分の原点ともいえる
昔の名前で昔の曲を歌ったかを話していた。その言葉が
とても興味深いものだった。以下、ユーミンの言葉を紹介する。
==========================
「今考えてみても折り返し地点だなあとは思います。」
「それ以前の数年、このままやってっても先が見えるなってゆう
感じに襲われたところがあって・・」
「でも折り返しだと思ったら、とたんまた折り返した気がした先に、
先の見えない地平が広がっていたという感じで、また走る気に
なる、そういう時期だったんじゃないかなと思うんですね。」
==========================

この言葉は面白い。まず発想の転換がユニークだ。
自分の限界が見えたと思った時に、それを超えて自らをより
高みに引き上げていく方法を語っている。物事を直線的に
捉えて、先が見えるからといって諦めてしまうのではなく、
「折り返す」ことで、あと半分の道のりを気持ちを新たに進んで
いける。考え方ひとつで人はどうにでも変われるものなのだ。

そして「折り返し」という考え方のさらに興味深いところは、折り
返した以上すでに道のりの半分を過ぎたことを認めている点に
ある。これって意外に難しいことだと思う。アーティストとしての
才能や活動がすでに半分終わってることを宣言してるわけ
だから・・。それができるのはそれまでの自分のやってきたこと
をきちんと評価してるからだと思う。もう先がないと焦るわけでも
なく、まだまだこれからだと強がるわけでもなく、自分が立って
いるところをしっかり見極め、そこからまた一歩を踏み出して
ゆく姿勢はあくまでも自然体であり、なおかつ力強い。
できるものなら私も見習いたい。

人生70年とすれば私もちょうど折り返し地点にいることになる。
まあ明日のことも分からないわけだし、実年齢は関係ないかも
しれないが、私も結婚して子供ができて~など、それまでの
人生を振り返ってみると、やはり「折り返し」を過ぎたあたりに
いるのだろう。人生半分終わったと認めるのは勇気のいること
だけど、今まで生きてきた自分をきちんと評価してあげよう。
そうして折り返した先には、先の見えない地平が広がってくる
のだから。まだ開けてない未来があと半分ある!

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2006.05.23

兆し

ユースケが生後2ヶ月のときに、私が書いた日記を載せます。
当時ユースケは通称グースケと呼ばれていました。その理由は
読んでみてください。ちなみにシュンヤは通称フガフガ君という、
ニックネームで呼ばれています。鼻が詰まりやすいようで、
いつもフガフガ鼻を鳴らしているからです(^^)。赤ちゃんのときって、
言われたい放題。ひどい親だなあと我ながら思うけど、
そのときどきで変わる愛称は、毎日見守っている親だから
できることなのでしょう。な~んて、さりげなく自己弁護(^^;)。

(以下原文そのまま)
2001年4月28日の日記
「兆し」

最近ユースケの様子が変なのだ。

いつもだったら、夜中でも3時間置きにミルクを欲しがるのに、
そのまま朝方まで寝てたりすることがある。
たて抱っこしたら私の肩にポフッと埋まってたのに、
出初め式のはしご乗りみたいにバランス取って、首を伸ばして
いることがある。ミルクを飲んだら満腹中枢を刺激されてすぐ
寝てたのに、そのまま起きてることも多くなった。
声を出すのはビービー泣く時だけだったけど、アーとかウーとか
言うようにもなった。起きてる間は泣いてばかりで抱っこしないと
収まらなかったけど、一人でおとなしくしてることもあるようになった。
にこーと満面の笑みを浮かべることもある。

これはどう考えても変である。今までにはなかった反応だ。
ユースケの体の中で、一体どんな変化が起きているのだろうか?
きっと想像もつかないスピードで成長してるのだろう。
これからが楽しみだ。ユースケも今日でちょうど2ヶ月になる。
実際、だいぶ重くなってきた。髪の毛も、芝生の芝ぐらいには
うっすらと生えてきた。日に日に成長する我が子を見守りたいと思う。

と書いたものの、まだまだグズることも多い。苦労は絶えない。グズる
ユースケを我々は、グズりん坊ユースケ、略してグースケと呼んでいる。
早くその名前を呼ばなくて良い日が来てほしいものである。

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2006.03.17

ホワイトデー

全国各地、悲喜こもごもあったであろうホワイトデー。
我が家はジョン太が、会社でもらった義理チョコのお返しを、
偶然にも出産前日に買いに行ってくれてました。
ナイスだ、ジョン太!

そんなわけでホワイトデーのネタをここでひとつ、
以前書いた日記からご紹介します。

(以下原文そのまま)
2003年3月14日の日記
「ホワイトデー」

ホワイトデーのプレゼント、ひとつ余ってしまいました。
誰に渡すものだったか思い出せません。どうしたら良いのでしょうか?
バレンタインデーのチョコレート、美味しくいただきました。
確かに私の胃袋に入ったはずで、食べてた時にはひとつひとつ
感謝して食べてたはずなのに・・。

バレンタインデーは4つ義理チョコをもらいました。たぶん。
ジョン太も4つと覚えてたので間違いないでしょう。きっと。
ジョン太に用意してもらったお返しの品を持って行こうとしたとき、
なんだか妙な不安感が・・。
「え~と、誰に渡すんだっけ?」
「知らないよ。数しか覚えてないもん」
その場で数え上げる私。会社で2つ、取引先関係で1つ。
あとひとつどうしても思い出せません。なんということ・・。
たぶん会社の人だろうと見当をつけて出勤しました。

とりあえず一緒に仕事をしてるパートナーに聞いてみようと
思いました。その人が誰からもらったか聞けば、きっとそれと
同じに違いない。朝一番、そのパートナーから、
「お、その包みはホワイトデーか?さすがだな」と言われ
「いや、実は・・」と事情を話すと
「え、俺は○○さんと、○○さんにもう渡したよ」
なんと、私が覚えてる2人と一緒!とするとやっぱり誰なのかは
分からないまま・・。

昼休み、おそるおそる女性陣に聞いてみる。
「え~と、バレンタインデーもらったっけ?」
ものすごく聞きにくい質問です。
「ハイって言ったらなにかもらえるんですか?」「え~と・・」
「誰か私にチョコくれた人いますか?」女性陣はただ笑うだけ・・。
あ~、どうしたら良いのでしょうか?

バレンタインデーなら誰に渡すか忘れても、誰かにあげれば
済む話だけど、ホワイトデーは返さなきゃいけないから、
もらってない人にあげるのはとっても変。悩みは深い。

男性陣に相談すると「そりゃやばいですよ」とか「サイテーですね」とか
「どっか他の女からもらったんじゃないの。もてるな、おい」などと
勝手なことを言われ、何のアドバイスもない。結局分からないまま。

結論としてはきっと、取引先の会社から、ということでもらったんじゃ
ないかと思われます。これだけ覚えてないということはきっと個人から
ではないに違いない。そう決めて、分からないならしょうがないやと
家に持って帰りました。
「おかえり~」とジョン太。
「やっぱりひとつ分からなかったよ」と私。
「え~、せっかく買ったんだからちゃんと渡してよ」とジョン太。
ちゃんと渡したいのはやまやまなんだけど・・。
あ~、私はどうしたら良いのでしょうか?

とりあえずもう少し頑張ってみます。

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2006.03.05

ここより永遠に

2月28日はユースケ5歳の誕生日でした。
私が「ユースケ、誕生日おめでとう!」と言ったら、
ユースケは「どういたしまして」と言ってきました(笑)。
まだまだ言葉の使い方におかしなところはあるものの、毎年確実に
心身ともに成長していて、それは親としてとても嬉しいものです。

去年はユースケが生まれた日の日記を掲載したので、今回は
ユースケ命名の日記を、このblogに再掲載したいと思います。

(以下原文そのまま)
2001年3月10日の日記
「ここより永遠に」

先日まで寒の戻りで冷え込んでいたが、今日はようやく春の
兆しも見え始めた。そんな天気の良い午後、出生届を提出した。

命名に関しては、今年になってからずっと考えていた。
「呼びやすい名前」で「易しくて読み間違えられない名前」を
ポイントにして、名前の候補が挙げられた。しかし、お互い
気に入る名前というのは少なくて、いろんな名前が浮かんでは
消えていった。そんな中、最初から候補として挙げられ、最後まで
残った名前がひとつだけあった。私たちはその名前に決めることにした。
無理にあれこれ考えるよりも、自然に気に入った名前を付けるほうが
良いのだろう。子供が産まれて数日後、彼女が「名前どうする?」と
聞いてきたので、「やっぱりあれかな」と私が答えて、名前が決まった。
あれだけ悩んでいたのに、名前が決まる瞬間というのは、驚くほどあっけ
なかったりする。でもそのことがとても自然な成り行きのように思えた。

名前を決めるに当たり、私は母に、私の名前が命名された時のことを
聞いてみた。名前の由来は知っていたが、母は今回こんなエピソードを
教えてくれた。私の名前は、父が自分で決めて、誰にも相談せず、
出生届を出してきたらしいのだ。私の兄の時は、母と祖母が名前を
考えたので、私のときはどうしても父が自分で名前を付けたかったようで、
届けを出してから、みんなに名前を披露したのだ。「あの人は、時々
みんながびっくりするような大胆なことする人だったからねえ」と母は、
当時を振りかえり懐かしそうに言った。母の驚く顔や、父の行動を
想像するととてもおかしい。そしてなんだかとても嬉しい。
自分の名前を誇りに思う。

「祐介(ゆうすけ)」これが私たち初めての子供に付けた名前だ。
将来この子が大きくなった時に、気に入ってくれると嬉しい。
そしてこの名前の、この子が、これからどんな人生を送るのか、
私たちはずっと見守っていきたい。
この子の人生はここから始まる。

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2006.03.01

シェアリング

2月27日は結婚記念日でした。

結婚について以前書いた日記があるので、
このblogに再掲載したいと思います。

(以下原文そのまま)
2001年7月12日の日記
「シェアリング」

美味しいものを食べに行ったとき、私たちは必ず違うものを
注文する。そしてお互いの料理を一口食べさせてもらうのだ。
そうすることで違う味を楽しめる。私たちはずっとそうしてきた・・。

「何が2人を結婚に踏みきらせたの?」と、
独身の友達から、将来の参考にと聞かれたことがある。その時は
どう答えていいのか自分でもよく分かってなかった。性格も違えば、
考え方も違う私たちだ。結婚に踏みきる理由とは何だろう。

「楽しいこと」について考えてみる。
私は"楽しいことは自分でつくる"派だ。楽しいことを自分で考えて、
つくりあげるのが好きだ。ある意味凝り性ともいえる。他人が用意
してくれたものはそれなりに楽しいけれど、自分たちでつくりあげた
ものはそれよりもっと楽しい、と考える。
彼女は"楽しいことは体験する"派だ。旅行、英会話、食べ歩き
などの趣味に加えて、1日体験入学なども好んで参加する性格で
ある。そういえば牛の乳しぼりもやってみたいと言っていた。
こんなふうに私たちは違っている。

だからいいのだと思う。
彼女と出会って今まで知らなかった楽しさが私の中で広がった。
自分だけだったらきっと知らない楽しさだったろう。

最近、シェアリングという言葉を聞くことがある。分け合うこと、
共有することという意味らしい。結婚をシェアリングというキーワードに
当てはめて考えてみる。結婚してまず変わるのは、時間もお金も
それまでよりずっと少なくなることだ。そういったものを分け合うことが
必要になり、それは結婚するがゆえの不自由さといえるだろう。
それでも多くの人が結婚してしまう。それはなぜか?

こんなプロポーズの言葉を何かで読んだ記憶がある。
「あなたの残りの人生を僕にください」
男らしいプロポーズと思う。俺について来い的な頼もしさを感じる。
そういうのもいいかもしれない。だけど相手が「はい」と返事をしたら、
プロポーズした人は、相手の残りの人生を背負ってしまうことになる。
それはけっこうな重荷になるのではないだろうか?
そして「はい」と答えた人は、自分の残りの人生を、相手に預けること
になる。それは果たして幸せなことだろうか?
もし同じ言葉を口にするとすれば、私ならこう言い換えるだろう。
「あなたの残りの人生を僕にもください」

結婚する理由とは、相手の人生も生きてみたいと思うことでは
ないだろうか。その人の生き方も生きてみたい。美味しいものを
食べに行ったとき、お互いの料理を少し食べさせてもらうのと同じ
なように。それは相手の人生を背負うのではなく、分けてもらうと
いうことだ。

もし1人で生きていくとしたら、それは納得のいく人生かもしれない。
だけど、それは自分の知ってることしか知らない人生だ。
自分の人生を生きながら、相手の人生も生きてみたい。
結婚はそれができる。だからきっと結婚するのだ。

結婚は、あんなふうに生きてみたいなと思える人としたい。
それだから、お互いの人生(価値観)は魅力あるものであって欲しい。
分け合うことは、減ることではなく、増えることだと考えたい。
分け合うことで、人生は2倍になる。
結婚って、たぶんそういうこと。

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2006.02.15

稼ぎを待つ者

このブログを始めるまでは、ジョン太の日記の後ろにリンクして、
私の日記を時々載せてもらっていました。今考えるとちょっと
トラックバックっぽい感じかも?夫婦間トラックバック?

ジョン太の日記の内容を受けて、私がどう書くかというのが、
自分なりになかなか楽しい試みでした。今回載せるのは
以前の話。バレンタインデーのジョン太と私の日記。
ちょうどユースケが生まれる2週間前の出来事です。

ジョン太の日記
2001年2月14日「バレンタインデー」

今日、世間ではバレンタインである。
仕事をしていない私としては「義理チョコ」にも縁がなくのんびりしたもの。
思えば「義理チョコ」なんて、いつから市民権を得たんだろう?
(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
せっかくなので、今日はチョコレートケーキを焼いてみた。
TVで簡単そうに作っていたのでチャレンジしてみたけど、出来あがりの
感じが微妙に違うような気もする。フワフワの口あたりでスフレに近い
感じかも・・。ま、一応「手作り」ということで大目にみてもらうとしよう。

それを受けて、私の日記。
(以下原文そのまま)
2001年2月14日「稼ぎを待つ者」

今日、世間ではバレンタインである。
仕事をしている私としては「義理チョコ」は多少なりとも縁のあるもの。
会社の女の子などからもらうのだが、嬉しい反面、申し訳なく思う
気持ちもある。無理して用意してくれなくても良いのだが、そう思うのは
私も年を取った証拠だろうか?しかしここに私がもらう「義理チョコ」を
心待ちにしている者がいる。ジョン太である。

仕事が終わり、家に帰ると「チョコもらった?」と聞いてくる。
私がもらったチョコを見せると、「開けていい?」と言い、勝手に開け始めた。
「これ知らないなぁ。(裏のラベルを見る)あ、モロゾフだ。
こんな名前(ブランド)でも出してるのね」
「あ、メッセージが付いてるよ。『奥様と仲良く食べてください』だって!」
「これはアーモンドにチョコをまぶしたもの。美味しいんだよ」
一人でぶつぶつ言いながら、包装を解いている。それを横で見ている私。

ひと通り見終わると、おもむろに仕舞い始めて一言。
「じゃ、これは産まれてからね」 お~い!

ジョン太は、私が「義理チョコ」をもらって帰るのを心待ちにしている。
こんなに楽しみにしている人も珍しいと思う。
どこの家庭でもこんな感じなのだろうか?
もらった「義理チョコ」は、ありがたく2人で一緒に食べさせていただきます。

そしてジョン太からもらった手作りのチョコレートケーキ。
甘すぎず、しっとり柔らかでとても美味しかった。
やっぱりこれが一番だな(というか、まだ比べようがないのだが)。

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2005.12.25

感謝を送る日

せっかくのクリスマスなので、何か書きたいのですが、
今年は家族でゆっくりさせてもらおうと思います。
その代わり、以前書いた日記をこのblogに再掲載します。

(以下原文そのまま)
2002年12月24日の日記
「感謝を送る日」

もうすぐ今年も終わる。年末恒例の仕事の忙しさもようやく一段落
しそうな気配だ。気がつけば世間のクリスマスムードをほとんど
感じることもなくここまで来た。あまりの仕事の忙しさに家族にも
心配を掛けてしまった。でももう大丈夫。ゆっくり過ごすことにしよう。

去年のクリスマスは、ユースケはまだ9ヶ月でつかまり立ちをしてた
頃だった。それから1年、元気に走り回るようになり、その成長には
目を見張るものがある。言葉はまだ出てこないけど、来年にはきっと
しゃべることが出来るようになるだろう。それが楽しみだ。

ジョン太と出会ってから迎えるクリスマスは今年で5回目。
出会って初めてのクリスマスから、結婚が決まり準備に追われてた
2年目、妊娠して出産を控えた3年目、ユースケが生まれた4年目、
そして今年が5年目。それぞれに思い出はある。

人によって、クリスマスの解釈は様々だろう。それぞれに意味は
違って当然だ。別にお祝いなんかしなくたっていい。ただのイベントだと
割り切ることもできる。でも私は素直な心でお祝いしたい。それができる
特別な日だと思うから・・。クリスマスは1年で1番素直になれる日。

年月を重ねることによって、2人のクリスマスの意味も変わってくる。
想いを伝える日だったり、それを確かめ合う日だったり・・。
そして子供が生まれた今、私がクリスマスを迎えて思うのは、
無事に1年を過ごせたことに対する感謝の気持ちだ。
家族に支えられて、今の私がいる。
私にとってクリスマスは「感謝を送る日」だ。

年月を重ねることによって、2人のクリスマスの意味も変わってくる。
でも変わらない気持ちもある。その気持ちを感謝に込めて。Merry Christmas!

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2005.10.08

10月6日はジョン太の誕生日でした。
当日のプレゼントは一輪挿しの花びんとバラ+α。

あらためてそのことについては書くつもりですが、
以前書いた日記をふと思い出し懐かしくなったので、
このblogにそれを再掲載したいと思います。

(以下原文そのまま)
2003年4月25日の日記
「花」

初めて人に花を贈ったのはいつのことだったろうか?
思えば花を贈るとき、そこには必ず伝えたい気持ちがあった。

花を贈る場面というと、不思議と男が女へ渡すところを思い浮かべてしまう。
女性は花が好きで、もらうと喜んでくれるからだろうか?
そうかもしれない。でもそれだけではないような気がする。
男の側にもきっと理由があるのだと思う。

子供のときは誰かに花を贈るなんて想像できなかった。
そんな恥ずかしいことができるかと思っていた。
でも気がつけば花を贈るようになっていた。
それができるようになったのは大人になったからだろうか?

伝えたい気持ちがあって、それを形にして贈りたい。
そう思う人は多いだろう。花でなくてもそれはできる。
でも花でしか伝えられない不器用な人間もいる。
それが男なのかもしれない。花が似合うのは女なのに、
男には花が似合わないのは分かっているのに。
それでも男は女に花を贈る。遠い昔から同じことを何度も何度も。
世界中のあちこちで、たぶん言葉が生まれる前の時代から。
馬鹿の一つ覚えのように。

男はロマンチックな生き物だというけれど、コミカルな生き物でもある。
花を贈る滑稽な姿を見れば分かるだろう。
だからどうかそんな姿を見たら優しく笑ってほしい。
しょうがない奴だなと。

花はいずれ枯れてしまうものだけど、気持ちを受け取ってもらえるなら、
想い出としていつでもその花を思い出すことができる。
人生の節目ふしめが花で飾られるのも悪くない。

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2005.06.06

点景

「さよならは言わない主義」というエントリーを書いた後、
いつからそんなふうに思うようになったのか、
その原点とでもいうべき出来事があったことを思い出しました。
そのときの日記をこのblogにも再掲載します。

(以下原文そのまま)
2001年3月17日の日記
「点景」

得意先でいつもお世話になっている人の義理の母(奥さんのお母さん)が
亡くなったということで、先日そのお葬式に出席した。私の親戚筋ではなく、
会社関係としてお葬式に出るので、故人のことは何も知らない。
お寺に着くまで、亡くなった人の名前も分からないままだったという、
このテイタラクである。

亡くなられた方は高齢だったため、葬儀に参列する人たちもお年寄りが多い。
こういうお葬式というのは正直少しだけホッとする。やはり天寿をまっとうするに
勝るものはない。悲しいことではあるが、それが運命だったと、みんなが素直に
受けとめている雰囲気を、感じることができるからだ。

喪主の挨拶で、故人の生い立ちが語られるのを聞いて、
故人の一生を思い、冥福を祈った。

葬儀が終わり、出棺すると、集まっていた参列者は三々五々散らばってゆく。
その中で、2人のお爺さんが、私の記憶に強く残った。

一人のお爺さんが、もう一人のお爺さんに手を差し出し、
「元気でな!また逢おう」と言い、力強く握手をして別れた。

「ああ、かっこいいな」と私はそのとき思ってしまった。
きっと今の私なら照れて出来ないことだが、いつか気負わずにこんな言葉が
自然に言えたらいいなと思う。友とのつかの間の再会を喜び、そして無事を祈る。
気持ちの良い光景だった。

そしてそう思うと同時に、おそらくはこういった機会にしか再会できない皮肉さに、
しばし思いを寄せて寂しい気持ちにもなった。
春の風がこころなしか強い、そんな午後のことだった。

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2005.02.28

出産当日のこと

今日はユースケの誕生日。4歳になりました。
おめでとうユースケ!
ユースケが生まれた日の日記を、このblogにも再掲載します。

(以下原文そのまま)
2001年2月28日の日記
「出産当日のこと」

2月28日(水)小雨、午後3時7分、体重2918g、身長46cm、男児誕生。
母子健康。万歳!

曇り空の朝、私たち夫婦は病院に向かった。

前日、病院には事前に連絡しておいた。予定日を1週間近く過ぎたが、
赤ちゃんに会う日がとうとう来たのだ。入院するために用意したバッグを抱え、
マンションのドアを締めた。「なんだか旅行するみたいだね」なんて
2人で笑いながら、部屋を出た。

9時に病院に着き、さっそく入院準備を済ませた。
部屋から外を眺めると小雨がパラツキ始めている。
どうかこの雨のように、心穏やかな日になりますように。

ナースステーション横にある陣痛室で、点滴を受けながら彼女は午前中を
過ごした。私はベッド横のソファでずっと付き添っていた。陣痛はなかなか
始まらず、出産までにはかなり長い時間が掛かりそうに思われた。

陣痛が始まったのは、12時になり、ご飯を食べている時だった。
突然痛みが訪れ、その間隔はいきなり短かった。10分間隔どころか、
3分間隔ぐらいからそれは始まった。ただ、陣痛の波がおさまれば、
ケロリとした顔になるので、私もその時は安心していた。でも、しばらくすると
陣痛は1分間隔ぐらいになり、かなり痛そうになってきた。私はベッドの横に
座り、彼女の腰をさすり続けた。私にできるのはそれぐらいなのが情けない。

とぎれとぎれの声で「痛くない」と彼女が言うので、意味が分からず
私が聞き返すと「ずっとさすってて痛くない?」と彼女がもう一度言った。
陣痛の最中に、私のことを気にするなんて!私が彼女のことを
気にしなければいけないのに。なんだか涙が出そうになってきた。

そのまま陣痛の間隔がほとんど無くなり、分娩室に移されることになった。
かなり苦しそうで、自分で歩くことが出来なかったため、私と看護婦さんで
分娩室に彼女を運んだ。このとき午後1時45分。看護婦さんにどれぐらい
掛かりますかと聞いたら、もうすぐですよとの返事だった。時間を聞くと、
30分ぐらいとのこと。なんだか今にも産まれそうな雰囲気だった。

私は出産に立ち会わない予定だったので、彼女が分娩室に入ってからは、
扉の外の廊下で待つことになった。しかし、ここからがとても長く感じられた。

30分を過ぎてもまだ産まれない。1時間が過ぎた時はさすがに心配になった。
中で一体何が起きているのだろうか?分娩室に出入りする看護婦さんに聞いても
もうすぐですよとしか答えてくれない。もしかしたら帝王切開になったのでは
ないかと考えたりもした。彼女の体が心配だ。でも、ここは信じて待つしかない。

椅子に座れば良いのだが、何だか落ち着かない。廊下をうろうろしながら、
扉の外側で、誕生の瞬間を待った。人から見られたら、かなり恥ずかしい状況だ。
そうやって待っていると、やはりいろんな人が廊下を通りすぎる。そのたびに、
壁に背をもたれて、なんでもないふりをする。でも、目は扉に釘付けだったりする。

産声を聞きたかった。子供が産まれる第一声を、この耳でちゃんと聞きたかった。
会社に定期連絡しなければいけないのに、携帯で喋ってる間に産まれたらと
思うと、電話できなかったり、親子連れが新生児室を見に来てて、子供が
はしゃいでると、そんな大きな声出したら聞こえないよお、なんて思ったりして、
待ってるあいだ、ずっとやきもきしていた。

そのとき、ふと自分の親のことが頭に浮かんだ。
私の親も、私が生まれる時はこんな感じでいたのだろうか?
この廊下が、その瞬間の過去に繋がっているような不思議な感覚を覚えた。
タイムスリップして、自分が生まれるのを、親の目を通して見ている、
そんな感覚だ。

時折、彼女の苦しそうな声が扉の中から漏れてくる。
声の調子が変わり、助産婦さんの励ます調子も変わってきた。
助産婦さんの掛け声に合わせ、彼女のいきむ声がようやく聞こえてきた。

午後3時7分、男の子誕生。元気な産声もちゃんと聞こえた。
何だか嬉しくなって、誰彼問わず「産まれたよ」と話しかけたい気持ちで
いっぱいになった。さっきまで、あれだけ人が通るのを嫌がっていたのに、
この心境の変化はどうしたことか?我ながら苦笑してしまった。

新生児室に運ばれた赤ちゃんは、まだ目も開けてなかった。
誰もがすることだとは思うが、私もやはり無意識に、赤ちゃんの手足の指を
数えたりして思わず確認してしまった。とりあえず無事であることにほっと一安心。
ただ頭がちょっと細長いのは笑ってしまった。産まれたばかりはこんな形で、
いずれ元に戻るものだとは知っていたけど、いざ実際に見るとやっぱり笑える。

眠っている赤ちゃんはとてもおとなしい。時々くちびるの端をちょっと
持ち上げ、何だか微笑んでいるようにも見える。どんな夢を見ているのか、
とてもご機嫌そうだ。

しばらくして、分娩台にいる彼女に会わせてもらえた。私が彼女の横に来ると、
彼女は少し泣いていた。タオルで涙を拭いてあげた。後で彼女に聞いたのだが、
ほっとしたら涙が自然に出てきたそうだ。

車椅子に乗せられ、部屋に戻る前、新生児室にいる赤ちゃんを2人で
一緒に見た。赤ちゃんはちょっと目を開けていた。やっぱり笑っているように
見える。自分たちの子供をこうして2人で見ている。
そのことがとてもとても不思議に思えた。

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2005.02.27

指輪の秘密

今日は結婚記念日。私たちは2000年2月27日に
結婚式を挙げました。初めての結婚記念日に
載せた日記を、このblogにも再掲載します。

(以下原文そのまま)
2001年2月27日の日記
「指輪の秘密」

1年前の今日、私たちは結婚式を挙げた。

せっかくの結婚記念日なので、何か書きたいのだが、
今夜は2人の時間を大切にしたい。

日記は別の機会にして、今日は以前友だちに
送ったメールを掲載させてもらいます。

結婚が決まった友達に送ったメール。
件名は「指輪の秘密」。

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指輪の話を書きます。

もしひとつだけ「言葉」を持ち歩けるとしたらどんな言葉を選びますか?
私はそんな基準で指輪に彫る文字を決めました。

私が選んだのは「おおむね良好」という意味の"mostly good"という言葉です。
別にお気に入りの言葉でもないし、座右の銘でもありません。
何を彫ろうか考えたときに心に浮かんだ言葉が「おおむね良好」だったのです。
自分が信じているものであり、今ではお守りのような言葉です。

なぜ「おおむね良好」という言葉なのかといえば、いくつか理由があります。

まずは、結婚を決めてから、短い期間で結婚式の準備をしたときの実感が
「おおむね良好」でした。いろいろ決めなければいけない問題も多く、
結婚式の直前ではほんとうに間に合うのかと思ったほどでした。
それでもなんとかなるものです。結婚準備期間は山あり谷ありの連続でしたが、
結果は「おおむね良好」でした。

そして私たち夫婦はこれからも「おおむね良好」であると信じています。
決して楽しいことばかりではないはずです。つらいことや悲しいことも
これからたくさんあると思います。でも自分の今までの過去を振り返り、
また、彼女と付き合い始めて結婚するまでのことを考えたとき、
結果的には「おおむね良好」でした。そしてそれはこれからも続くと信じています。

人生というのは考え方次第でどのようにも変わるのだと思います。
仮に全く同じ人生を歩んでいる人たちがいたとして、同じ人生なのに、
ある人は幸せだと感じ、ある人は不幸せだと感じるかもしれません。
幸福は絶対的なものではなく、相対的なものです。
幸せだと感じる人が幸せなのだと思います。

だから私たち夫婦は「おおむね良好」です。でも、もしそう思えないような
状況がおとずれたときは、そう思えるように現実のほうを変えていく行動力も
必要だと考えます。二人で力を合わせて「おおむね良好」と思えるように
努力していきたい、そんな願いもこの言葉に込めています。

"very good"を望むのではなく"mostly good"でありたい、
そう思えるような柔軟な心とそれを実現する行動力を持っていたいと願います。

実際、指輪に彫られている文字は、私が"2000.2.27MG-mostly"で、
彼女が"2000.2.27MG-good"です。"2000.2.27"は結婚記念日です。
"mostly good"をお互いの指輪に彫りたかったのですが、
注文したお店から18文字以内と言われ、"2000.2.27mostly good"だと
20文字になるため、"mostly good"を二人で分けて"MG-mostly"と"MG-good"に
彫ることに決めました。二人の指輪を合わせて一つの意味になるので、
結果としてはこのほうが良かったのだと思います。

これもまた「おおむね良好」です。
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2004.12.24

サウンド・オブ・サイレンス

今日はクリスマスイブ。
結婚して初めてのクリスマスイブに書いた日記を
このblogにも再掲載したいと思います。

(以下原文そのまま)
2000年12月24日の日記
「サウンド・オブ・サイレンス」

忘れられないクリスマスの想い出がある。
まだ結婚する前、彼女と知り合って半年、初めてのクリスマスの話だ。

2年前のクリスマスイブ、彼女からクリスマスカードが届いた。
それを手にした私はその時ひどく驚いていた。
なぜなら私たちのクリスマスは先週末に済んでいたと思っていたからだ。

当時私たちは週末ごとにお互いの家を行き来していた。
彼女は博多で、私は小倉だった。新幹線で20分、特急で40分の距離だ。
私が彼女の家に遊びに行くと、その翌週は彼女が私の家を訪ねる。
そんな週末だけのデートを繰り返していた。

その年のクリスマスは平日だった。平日は仕事があるので会うことができない。
私たちは一足早くその前の週末にクリスマスのお祝いをした。
そこで私たちのクリスマスは終わったはずなのだ。
それなのにクリスマスカードが届いている??
そんな話は聞いてなかったのだが・・。

クリスマスイブの日、仕事が終わり、みんなとお酒を飲み、少しだけ
クリスマスのお祝いをして、私が家に帰ったのは午前3時のことだった。
ポストに届いてた彼女からのクリスマスカードを見つけ、部屋で開いてみた。
彼女からのクリスマスカード。それは開くと音楽が流れるカードだった。
しかし・・。そのカードはなぜか音が出なかった。何度も開いたり、閉じたり、
いろいろ試してみたが、カードに取り付けられている装置から音楽が流れる
ことはとうとうなかった。私は酔った頭で考えた。

配達の途中で壊れてしまったのだろうか?それとも彼女が何度も試して
電池切れでも起こしてしまったのだろうか?いずれにしてもカードから
音楽は流れない。そのことをどうやって彼女に伝えたらいいのだろう?

どんなふうに話しても、きっと彼女はがっかりするに違いない。
クリスマスカードを開けると、音楽が流れ出し、それを見て、
私がちょっと驚いたり、喜んだり、そんな姿を想像しながら
そのカードを選んでくれたのなら、壊れて音が鳴らないことを
一体どうやって伝えたらいいのだろうか?電話で話すか?直接会って話すか?
「クリスマスカード届いたよ。ありがとう。でも壊れてて音鳴らなかったよ」
なんて言えるはずがない。私には彼女を傷つけずに話す自信がなかった。

ひとの”思い”は大切にしたい。相手のことを思いやり、してくれたことには、
それをきっちり受けとめたい。いいかげんな返事で傷つけたくはない。
どれだけ嬉しかったか、それをきちんと伝えたい。
どんなふうに話しても上手く伝えられないのなら、
どうやって彼女に伝えたらいいのだろうか?
私はもう一度コートを羽織って外に出た。クリスマスカードを買うために・・。

真夜中コンビニに行き、クリスマスカードを探した。
さすがにクリスマス当日のため、置いてあるクリスマスカードは
売れ残りで、あんまり良いデザインのものはなく、何軒かコンビニをまわり、
ようやく気に入ったクリスマスカードを買うことができた。

私は考えたのだ。話す前に、手紙で先に伝えておけば、きっとショックも
少ないだろうと。ただその年のクリスマス・イブは木曜日、私が家に戻った時
は、すでに金曜日のAM3時だった。土曜日になればまた彼女と会う。
その前になんとしてでも手紙を届けなければいけない。金曜日の朝、郵便局に
出せばその日のうちか、土曜日の午前中には届くだろう。ぎりぎりセーフって
ところだ。そんなわけで私は真夜中クリスマスカードをつくることになった。
その日の朝、クリスマスカードを投函するために・・。

家に戻り、長い時間をかけ、彼女へのクリスマスカードをつくった。
すべて終わったのはAM5時に近かった。
そして出勤までの数時間、私は深い眠りについた。

これが2年前に起こったクリスマスの話の全てだ。
思えば誰かのためにこんなに一生懸命になったことはなかったような気がする。
でもその時の私はなぜかそうせずにはいられなかったのだ。
音の出ないクリスマスカードを手に取った時、そうせずにはいられなかったのだ。


(おまけ)
=- 彼女へのクリスマスカード -====================

クリスマスカードをもらうなんて、生まれてはじめてかもしれません。
クリスマスイブに届きました。

ありがとう。

クリスマスイブは仕事が遅くまであって、あいかわらず忙しい一日でした。
でも会社で買わされたクリスマスケーキが届くと、なんとなくクリスマスっぽ
く感じられるから不思議です。

夜、私が仕事をしていると課長が会社に戻ってきて、自分が頼んだはずのケー
キがないと騒いでいました。食いしん坊の課長のために、結局私のケーキは夜
食となり、会社に残っていたみんなで食べてしまいました。おまけに、これま
た買わされていた生ハムを課長に見つけられてしまい(会社の冷蔵庫に保管し
ていた)、これも差し出す結果となりました。

これだけではみんなお腹がいっぱいにならず、寿司を買い出しに行く人がいた
りと、結局会社でクリスマスパーティ?をしてしまいました。

その後飲みに繰り出し、いま家に帰ってきたところです。時間はAM3:00。

届いたクリスマスカードに感激して返事の手紙を書いています。
残念ながらカードに付いている機械の調子が悪いみたいで、音楽は鳴りません
でした。たぶんクリスマスソングが流れるんじゃないかな?違うかな?

クリスマスカードを手に取り、流れるクリスマスソングを想像しています。
ちょっと遅くなったけど Merry X'mas!
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2004.10.06

コスモスとオルゴール(後編)

3年前に書いた日記。
(以下原文そのまま)

2001年10月6日の日記
「コスモスとオルゴール(後編)」

[プロポーズ篇]

私が思い描いたのは、コスモスが咲き乱れる能古島で、
彼女の誕生日プレゼントに「カノン」のオルゴールを渡して
プロポーズすることだった。オルゴールは準備したし、
能古島のコスモスは9月下旬から10月上旬が見頃だから、
10月6日の彼女の誕生日前には絶好のプロポーズ日和となる。
これ以上のシチュエーションがあるだろうかと、私はひとり悦に
入っていた。しかし、現実は思ったようにはいかないものだ。

2年前の9月24日、台風18号が九州各地に壊滅的な
ダメージを与えた。新聞の「コスモスだより」はそれまで
「3分咲き」だったのが、翌日には「つぼみ」に戻っていた。
暴風雨がコスモスをなぎ倒してしまったのだ。
うひゃあ。プロポーズする日まであと1週間ぐらいなのに。
私は祈るような思いで、新聞の「コスモスだより」を
毎日チェックするしかなかった。

「見頃」になるはずだったコスモスは、なんとか「3分咲き」まで
回復してくれた。考えていたシチュエーションとはちょっと違うけど、
今さら計画を変更できない。なんとしてでもプロポーズするのだ。
プロポーズする日は10月3日の日曜日。彼女の誕生日前の週末だ。

そしてその週末はあいにくの天気となった。前日の土曜日には
彼女から「ねえ、ほんとに能古島行くの?明日は雨だよ」と
言われてしまった。確かに明日の天気予報は曇り時々雨。
考えていたシチュエーションとはちょっと違うけど、今さら計画を
変更できない。なんとしてでもプロポーズしなければ。

プロポーズ当日。ぐずつく天気をにらみながら、能古島にやってきた。
雨はまだ降ってなかったけど、今にも降りそうな曇り空だった。
コスモスが一面に広がっているはずだった花畑は、まだ台風18号の
影響でところどころなぎ倒されたまま、花も実際には1分咲き程度に
見えた。コスモス畑のある丘で、海を見ながら、彼女がつくってくれた
お弁当を一緒に食べた。本当なら今ごろはコスモスを見に来る
観光客でいっぱいなのだろうが、やはり見頃ではないために、
能古島を訪れる人はまだ少ないようにみえた。
私たちもまた場違いな観光客だった。

いつプロポーズするか、私はそのタイミングを考えていた。
なかなか言い出せず、島を散策するうちにとうとう雨が降ってきた。
土砂降りだった。

土産物屋で雨宿りしながら、軒先のコスモスを見ていた。
今日はもうプロポーズできないかもしれない。
でも今日しなければ、彼女の誕生日を過ぎてしまう。
途方に暮れながら、雨に打たれるコスモスを見ていた。
彼女も心なしか悲しそうに見える。
(というよりはこの強引な能古島行きに合点がいかないみたい)

しばらくすると小雨になり、また散策ができそうな天気になった。
土産物屋の人が大きなパラソルを貸してくれた。
ゴルフのときに使いそうな赤と白と青の3色のパラソル。
私たちは礼を言ってまた散策に出かけた。
途中、いろんな花を見たり、うさぎと一緒に遊んだりしたが、
どこで言おうかそればかりが気になり、あまり楽しむことはできなかった。

そしてまた海の見える丘に来て、マットを敷いて2人で座った。
小雨がちょっと降っていたので、借りた大きな3色パラソルを
2人の後ろに立てかけた。目の前にはコスモス畑があり、
満開には程遠かったが、それでもコスモスは咲いている。
そこから先は海が広がり、空が大きく見える。
気がつけば雨は止み、晴れ間からいく筋かの光が射してきた。
周りを見ると私たちのいる丘には他に誰もいなかった。
いくらまだ観光客が少ないとはいえ、この丘に誰もいない瞬間が
あるなんて考えられないことだった。小さな奇跡というものがあると
すれば、それはきっとこんな状況のことをいうのだろう。
私はここでプロポーズすることにした。

オルゴールを彼女に手渡し、開けてみると「カノン」が流れてきた。
彼女もそれを聞いて、あのとき一緒に見た映画の曲だと分かってくれた。
私は嬉しくなり彼女にプロポーズした。
「結婚しよう」。
彼女から返ってきた答えは「イや~」 だった・・。

ずるっ。なんだそりゃ。
でもそう言った彼女の顔がとても嬉しそうだった。
もう一度、結婚しようと言うと今度はうなずいてくれた。
そしてまた2人でオルゴールを聞いた。
「カノン」のオルゴール以外は何も聞こえない世界。
あの時のあの場所は、確かに2人の為だけにあった。

あのとき感じたことは「おおむね良好」という言葉だった。
コスモスはほとんど咲いてなくて、途中で土砂降りになったりと
コンディションは最悪だったが、プロポーズは最高の瞬間にすることが
できた。プロポーズしてからは結婚準備に邁進することになるのだが、
何か問題があるたびに感じたのも「おおむね良好」という言葉だった。
そしてあれから2年が過ぎ、私たちは結婚して子供もできた。
「おおむね良好」という意味の「Mostly Good」という言葉は、
結婚指輪に刻み込まれ、今でも私たちと一緒にある。

10月6日は彼女の誕生日。あの頃のドタバタを懐かしく思い出す。
心から誕生日おめでとうを言いたい。

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2004.10.05

コスモスとオルゴール(中編)

3年前に書いた日記。
(以下原文そのまま)

2001年10月5日の日記
「コスモスとオルゴール(中編)」

[オルゴール篇]

「カノン」というクラシックの曲がある。
心が落ち着くような優しいメロディで、オルゴールの定番
にもなっている。「カノン」は私たちをつなぐ大切な曲となった。

始まりはある映画だった。
プロポーズする半年前のこと、私たちはその映画を見た。
正確に言えば、ビデオを借りて家で見たのだが、その時私は
どうしても彼女とその映画を見たかったのだ。ちょうどその頃、
私たちは2人の今後について考える時期に差し掛かっていた。
何らかの意思表示をしなければならない。
私はその映画に想いを託した。

それは名作と呼ばれるものではないが、私にとっては特別な
映画だった。その映画の中に老夫婦のエピソードがあり、
それを彼女に見てもらいたかった。お互いガンに侵された
老夫婦が、最後の面会をするのだが、そのときお爺さんが
お婆さんにぽつりぽつりとこんなことを言うのだ。
「……お前と出会えた、この人生に……感謝するよ。……」
これが私の結婚観だった。こんなふうに言える人生を送りたいし、
こんなふうに言われる人生を送りたい。私は彼女にこう言った。
「あんなふうなお爺さんとお婆さんになりたい」と。
これがある意味、私のプレ・プロポーズだった。
そして半年後の彼女の誕生日までにプロポーズすることを、
彼女に告げた。

老夫婦のエピソードに印象的に使われていたのが、
「カノン」のオルゴールだった。私は彼女の誕生日に「カノン」の
オルゴールをプレゼントしたいと密かに思った。
きっと喜ぶだろう。そしてプロポーズをするのだ。
私は「カノン」のオルゴールを探した。

デパートなどを回るがなかなか見つからなかった。
おもちゃのようなものならあるが、私が探していたのは
木製の箱に収められたいわゆる普通のオルゴールで、
それがなかなか見つからない。いろいろ問い合わせた結果、
大宰府のオルゴール館にあることが分かり、休みを利用して
そこまで出掛けた。お店の人は親切にいろいろとオルゴールに
ついて教えてくれた。そして「カノン」のオルゴール。台の上に置き、
そっとオルゴールの箱を開き、流れ始めたその音を聞いた時、
「ああ、私が探していたのはこれだったんだ」と思わずには
いられなかった。それほどにやさしい音色だった。私が買ったのは
スイスのリュージュ社製36弁ムーブメントのオルゴール。
あのとき見た映画の中のオルゴールの音が聞こえる。

(おまけ)このオルゴールはその後、彼女の出産直後に
また2人で聞くことになる。出産当日にオルゴールを
持ち込もうとしたが見つからず、おかしいなと思っていたら
彼女も同じことを考えていたらしく、先に彼女が持ち込んで
いたことが分かった。出産直後の分娩室で、2人っきりで
「カノン」のオルゴールを聞いた。
我が家の歴史は「カノン」とともにある。

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2004.10.04

コスモスとオルゴール(前編)

3年前に書いた日記。
(以下原文そのまま)

2001年10月4日の日記
「コスモスとオルゴール(前編)」

2年前の秋、私は彼女にプロポーズした。
新聞の「コスモスだより」を見るたびに、あの頃のことを
懐かしく思い出す・・。

2年前の9月の終わり、私は新聞の「コスモスだより」という
コスモスの各地の開花状況を知らせる小さな欄を毎日チェック
していた。私が見ていたのは、能古島(のこのしま)のコスモスの
開花状況だ。能古島は福岡にあり、1年を通して季節の花が
楽しめる島である。島とはいえ、フェリーで10分と比較的近く、
福岡の中心地からもそれほど離れてはいない。ここはコスモスの
名所として知られている。
私はもう一度ここで彼女とコスモスを見たかったのだ。


[コスモス篇]

話はそれからさらに1年前にさかのぼる。
当時私たちは知り合って2か月が過ぎていた。知り合ってからは
週末になるたびに、お互いの家を行き来する生活を送っていた。
車を持っていなかった私たちは、どこかに遊びに出かける時は
電車かバス、または徒歩という今どきの学生でもやらないような
交際をしていた。当然、行動範囲は狭い。そんな私たちが立てた
初めての計画が、能古島にコスモスを見に行くことだった。とはいえ、
彼女の住んでたところから1時間そこらの場所なので、小旅行とさえ
呼べないものかもしれない。それでも船に乗って島に行くのだ。
気分はすっかり小旅行だった。

それまでの私は、彼女とのことを強く意識したことはなかった。
毎週会うことがあまりにも自然なことに思えていたから、
付き合っているという自覚さえ薄かったのかもしれない。
しかし能古島に着き、一面に広がるコスモスの花畑を見ながら、
2人で歩いているうちに、ふいにこんなふうに思っている自分に
気が付いた。「来年もまたここに来て、2人でコスモスを見たいな」と。
2人の将来について初めて考えるようになった場所がここだったのだ。

この日、私たちは初めて記念撮影をした。
私たち2人の姿が写った最初の記念すべき写真。
それまでは写真なんていらないと思っていた。
だけど、このとき初めて、形に残るものが欲しいと思った。
記録に残したいと思い始めたのは、彼女が大切な存在に
なったせいかもしれない。
それから1年後、私はここで彼女にプロポーズすることになる。

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2004.08.23

ゆるやかに築くもの

今年も「砂浜の美術展」に行ってきました。
そのときのレポートはまた後日アップしようと思いますが、
2年前に書いた日記があり、このblogにも再掲載したいと思います。
ユースケが1歳6ヶ月になる頃の日記です。

(以下原文そのまま)
2002年8月25日の日記
「ゆるやかに築くもの」

昨日、芦屋の「砂浜の美術展2002」に出掛けた。
今年で8回目になるそうで、私たちがこのイベントに初めて行ったのは
おととしのことだった。当時ユースケはまだ生まれておらず、ジョン太の
お腹の中にいた。妊娠していたことが分かって間もないときで、
つわりもあるし大事を取って、涼しい午前中だけ見に行ったのだった
(そんなときでも出掛ける私たちって??)。

去年はユースケがまだ6ヶ月経ってなかったのでパス。
そんなわけで今年は久々に見に行けるので楽しみにしていた。
今年の砂像も素晴らしく、私たちは大満足だった。
ユースケも砂浜を歩くのが楽しいのか、元気良く駆け回っていた。

夕方近くになり帰る頃、私たちは砂浜を歩きユースケもその後を
ついてきていた。「ユースケ、帰るよ」と声を掛けると、ユースケは
寄り道をしながらも、私たちの後をトコトコとついてくる。
最近では、呼べば振り返るし、呼んでることが分かるのか、
こちらに近づいてくる。以前だったら考えられないことだ。
やはり少しずつ成長しているのだろう。

手をつないで歩きたいのだが、歩きにくいのか、相変わらず嫌がるので、
仕方なく後ろを振り返りながら、声を掛け、ついてきているのを確かめ
ながら歩く。つかず離れず歩く私たちとユースケ。見えない糸で結ばれてる
みたいだ、なんて、柄にもなくふと思ってしまった。不思議なもので、
これだけ大勢がいるのに、ユースケは私たちを見つけてついてくる。
当たり前のことと思うかもしれないが、それまではできなかったことなのだ。
我が子が自分たちの後をついてきて、私たちは我が子を振り返る。
親子の関係とはきっとこんなものなのではないか。

初めから親子の絆があるわけではないと思う。子供が生まれた瞬間から
親という役割、子という役割がそれぞれに与えられるだけなのだ。
我が子を愛しいと思うのは当然の感情で、それに疑問をはさむつもりはない。
だけどそれだけで親になれるわけではない。子供が親を認めて後をついて
きて、親は後ろを振り返りその子の名前を繰り返し呼ぶ。親子の絆とは、
そうやってゆるやかに築いていくものなのだろう。
そんなことを考えながら芦屋の海を後にした。

私はこの光景をきっと忘れることはない。

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2004.08.16

アンリ・カルティエ=ブレッソン

写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソン(95歳)が8月3日に亡くなった
そうです。ある方のblogで知りました。こういった情報はテレビや新聞
だけではなかなか伝わってこないので、そういう意味でblogというのは
役に立つなあと思ったりします。

さて、そのアンリ・カルティエ=ブレッソンですが、実は私はそれほど
詳しいわけではありません。ただ以前、写真展を見に行ったことがあり、
その感想を日記に書いていたのを思い出しました。
「写真」について、自分なりに思うところが書いてあり、読み返すと
なかなか面白かったので、このblogにも再掲載します。

(以下原文そのまま)
2000年9月23日の日記
「アンリ・カルティエ=ブレッソン写真展」

写真は引き算の芸術である、と何かで読んだ記憶がある。
アンリ・カルティエ=ブレッソンはそれを強く感じさせる写真家だった。

招待券をもらったので、写真展に行こうという話になったのだが、正直
このアンリ・カルティエ=ブレッソンという写真家は全く知らなかった。

モノクロの写真がずらりと並ぶ。今回は「Landscape/ニ度とない風景」と
いうサブタイトルの通り、風景をテーマにした写真展だった。
世界各地のどこにでもある風景が、どこにでもない写真として収められて
いる。写真家というのは、すごい人たちだ。この人たちにかかれば、
何気ない風景が、一枚の芸術に変わる。これを感性というのだろうか?

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は絵画のようだった。
これ以上ない構図で、申し分のない白と黒のコントラスト、遠景に霞む
建物や森などは墨絵を思わせる。印象派のような点描としか思えない
タッチの風景写真もあった。

余計なものは何も入れない。余計なものはカメラのフレームから外してしまう。
真っ白なキャンバスに自分の伝えたいものだけを残す。これが引き算の芸術。
自分の感性に従い、伝えたいものを狙い、定め、その瞬間を記録する。
そこに写し出されるのは、他の人には決して撮り得ない「二度とない風景」だ。

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2004.08.03

8月2日に思う

今朝、ユースケが「おじいちゃん」という言葉を口にした。
おそらく偶然なのだろうけど、ハッとするものがあった。
昨日は父の命日なのだ。

以前、父のことを書いたことがありました。
このblogにも再掲載したいと思います。

(以下原文そのまま)
2001年8月24日の日記
「8月2日に思う」

日記を書くようになって、思っている事をちゃんと言葉として残して
おきたいと思うようになった。忘れられないこと、忘れてはならないこと、
それらをどこかで一度きちんと書いておきたいともずっと思っていた。
今日はそんな話を書きたい。

10年前の'91年8月2日、父が亡くなった。58歳、交通事故だった。
私は社会人になって2年目で、その頃東京にいた。
ごく普通の日だったように思う。
普通に出勤して、普通に仕事を始めた朝のことだった。
父が事故に遭ったことを最初に連絡くれたのは、親戚のおばさんだったと思う。
記憶は定かではない。ただ、電話を取り次いでくれた同僚が、「女からだぞ」と
ふざけて電話をよこし、後で事情を知って、バツが悪そうな顔をしたのを
なぜか覚えている。

親戚のおばさんから状況を聞き、それから兄と話した。駄目そうだった。
とにかく戻って来いとのことで、上司にその旨を話し、実家の大分に向かった。
兄からは父が死んだと聞いた。「えっ!」ではなく「へっ?」という感じだった。
その言葉の意味する事が、頭の中でうまく結び付かなかった。
すぐに支度を済ませ、羽田に向かったが、途中考えることは、
「レンタルで借りたCD返せないまま出ちゃったけど、しばらく帰れないし、
 延滞金どうしよ~」とか、実にくだらない、ささいな事柄ばかりだった。
気持ちがそんなところに逃げていたのだと思う。
危篤であれば、まだ間に合うかもしれないと焦ることも出来たかもしれないが、
私の場合、父の死という結果を先に知らされたのだ。
時間はのろのろと過ぎ、足取りは鈍かった。羽田に着き、飛行機の手配を
したときも、「あ~、こんなふうに前もって予約しなくても乗れるんだぁ」と
妙な感心をしたりした。万事その調子だった。

半日かけ実家に戻ったとき、父はすでに白い服で横たわっていた。
父の顔を見てどんなことを思ったか、遠い記憶のためはっきりとは覚えていない。
ただ取り乱しはしなかったと思う。私は父の姿を見てその死を受け入れ始めてる
自分に気付いた。私が父に最後に会ったのはその年の正月だった。
それから半年以上、父の姿を見てないし、声も聞いていない。
そして突然の死を知らされて、今ここにこうしている。
毎日父を見てきた母や兄たちは、父が亡くなったことをとても信じられないだろう。
昨日まで、いやさっきまで元気だった父なのだ。横たわる父のそばにみんなと
一緒にいるのに、自分だけがとても遠くにいるようなそんな淋しさを覚えた。

気持ちはどこか焦点を失ったままに、ただそんな状態でも通夜から葬儀へと
式が滞ることはない。悲しみにゆっくりひたる時間もない。それでいいのだろう。
儀式をひとつひとつ通過する度に、気持ちに折り合いをつけていくのだ。
唱えるお経の意味は分からないし、それで父の魂が安らかになるのか
それさえ分からないけど、遺された私たちには必要な儀式なのだと思った。

葬儀の時、母が呟いた言葉を今でも覚えている。
棺に納められた父に最後のお別れをする時、母は父の顔を触りこう言ったのだ。
「お父さんが冷たい・・」
当たり前すぎること。でもそれが現実なのだ。
私は泣いた。

父が亡くなった日は、夏祭りの初日だった。
街は賑わってるはずだが、私たちには縁のないことだった。
それでも、3日間続く夏祭りの最終日に打ち上げられる花火を遠くで見ながら、
「何もこんな時に死なんでも」と情けない気持ちになったのを覚えている。
そしてこうも思った。「お祭り見てからでも良かったやんか。ちょっと早いよ。
まだ60にもなってないんやろ。早すぎるよ」とも。

葬式が終わるとゆるやかな時間が続くことになる。ずっと泣き続けることなんて
誰にもできない。時間が来ればお腹が減るし、夜になれば眠くなる。
ふだんと同じ生活をしなければ私達は生きてはいけない。
悲しみは心の中にある。

取り戻せない悲しみは、コップいっぱいに満たされた水のようなものだ。
微妙なバランスで平静を保っている。
何ともないように見えて、だけど何でもないことで、すぐにこぼれてしまうから。
そしてまたその分だけ満たされてゆくのだ。
忌引の間、ふいに涙が出てしまうことが何度かあった。なぜこんなところで、と
思うようなところで、理由は分からないが、涙が出てしまう。
早朝、川沿いを散歩していた時のことだった。自分でも気づかないうちに
涙が出ていて、泣くことで父を思い出してしまい、そしてまた泣いた。

父は交通事故で亡くなったが、その原因は父の車が対面のトラックに衝突した
ことだった。トラックとその運転手に大事はなかったのが、せめてもの救いと
言えるだろう。車を商う仕事をしている父が、仕事中とはいえ、車で命を
落とすなんて、あってはならないことだ。事故検分によると、父は
シートベルトをしてなかったらしい。いつもシートベルトをしている父が
なぜその時してなかったのか。そしてブレーキを踏んだ形跡もなかった。
居眠りではないかという話が出た。そうではなく、体調に異変が起きた
のではないかという人もいた。そういえば最近顔色が悪かったとか、
周りの人が言ってくれた。心臓発作でも起きて、苦しくてシートベルトを
外したのだろうか。そしてそのまま事故を起こしてしまったのだろうか。
真実は誰にも分からない。分からなくていいのだと思う。
世の中には、分からないほうが良いものがあるということを、その歳になって
ようやく知った。自分の信じたいことを信じてもいいのだと思う。

私が固く心に決めているのは、交通事故でだけは絶対に死ねないということだ。
なぜなら交通事故は不幸だからだ。私の家族も絶対に交通事故で失いたくない。
どんな人生であれ、天寿を全うしたい。ひたすらそう思う。

1週間の忌引の後、1日出勤すればお盆休みになるので、
その日は有給を使うことにして、2週間近く休んだ。
その夏、私は誰よりも早く、誰よりも長い休暇を取った。忘れることはできない。

あれから10年。私は結婚して、子供ができ、家族を持った。
この10年間のことを、父ならなんと言ってくれるだろう。
8月2日になると、父のことを想い出す。

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2004.06.05

言葉美人

「ネット」と「言葉」をめぐる事件が起きている。
まったく関係はないのだけど、以前書いた日記を思い出しました。
当時「タオの日記」というタイトルで、思いつくまま考えたことを
日記形式で書いていました。ネット・言葉・人柄 について
書いた内容があったので、ここに再掲載します。

(以下原文そのまま)
2003年7月5日の日記
「言葉美人」

人柄とはいったい何だろうか?どうやって決まるものなのだろうか?
最近、そんなことを考えている。

容姿、服装、表情、声のトーン、言葉の使い方、話題の選び方など、
要素はいろいろあるが、おそらくそのすべてを瞬時に私たちは判断
してるのだろう。そこから感じ取れる雰囲気がその人の人柄なのだ。
優しそーだとか、怖そーだとか。本当のところは分からないけど、
そうやって表面に現れてくるものを私たちは読み取るしかない。

ネットの世界では実際には会ったことがない人も多い。
HPを運営していれば、顔見知りの友達も遊びに来てくれるけど、
そうではなくHPを通して知り合いになる人も多くなる。
その場合、相手のことはもちろん知らないわけで、
どんな人だろうと想像するしかない。
プライバシーの問題もあるので、写真を公開してなければ、
あとはその人の言葉から読み取るしかない。
限られた情報の中で、相手の人柄を推し量ることになる。
それは言葉の使い方や、話題の選び方、考え方などだ。
ぶっきらぼうな書