2007.09.18

天球の夜空

頭上の夜空を見たことがありますか?
夜空を見たことがあるのは当たり前。でも真上はどうでしょう?
見たことありますか?

ふつう空を見上げる時の角度はせいぜい45度。真上を
見ようと思ったらかなり無理な体勢を強いられることになります。
ということは、寝転がって見るのが一番自然な姿勢だと言えます。
芝生に寝転がって空を眺めたことがある人は、きっとたくさんいる
でしょう。でもそれは昼の青い空。これが夜空だったら?
みなさんは経験ありますか?

我が家には屋根裏部屋があり、明り取りの窓から外に抜け出すと、
マンションの屋上に出られます。そこは眺めがよくて大好きな
場所なのですが、安全柵がなく、代わりに膝上ぐらいのでっぱりが
あるだけです。だから万一を考えて、子どもの前では絶対屋上に
出ないようにしています。でも子どもが寝たあとなら大丈夫。
屋上に出て夜景を眺めるのが、私の楽しみの一つです。

子どもに対しては心許ないでっぱりですが、大人にとっては
ちょうどベンチ代わりにも使えます。危なくないかって?大丈夫。
このでっぱりの先にも床は続いてるので、転げ落ちる心配は
ありません。このでっぱりに腰を下ろし、街の灯を眺めています。

ある日のこと。このでっぱりに寝そべってみました。そこから見た
夜空は今まで見たことがないものでした。視界がいつもと違い、
さえぎるものが全くありません。夜空の黒、星の点。立体感の
ない平べったい雲が、視界をすべるように流れて行く。真上を
見てるはずなのに、見下ろしてる感覚。ドキドキしてきました。
何十年も生きてきて、初めて見る景色です。

私はそれまで夜空をこんな風に見たことがありませんでした。
考えてみれば当然です。見るとすれば、夜の芝生で寝転ぶか、
酔っぱらって道で大の字になるかぐらいでしょう。そうそうある
もんじゃありません。意識しない限りは、見たことがないことさえ、
気がつかないのではないでしょうか?

視界をさえぎるものがないという経験は、日常あまりないことに
あらためて気がつきました。地平線を見ることなんてめったに
ありません。建物や山にさえぎられて、ひどいときは数メートルで
視界を障害物に阻まれてしまいます。だから頭上の夜空を見た
ときの驚きは新鮮でした。今見えるこの星と私を隔ててるものは
何もない。気の遠くなるほど遠い星なのに。小雨のパラつく日、
真上から降りてくる雨を体で受ける。この雨は空から私に向けて
降ってきたものだ。なんて不思議な感覚。ドキドキしてきます。
他に何もないから。自分と空しかないから。見ているうちに
自分の意識が夜空に拡散するような気分になります。

寝転がって見る夜空。視線を真上から地上に下ろしていくと、
空の丸さを感じることができます。ぐるりとそこから視線を
360度めぐらしてみてください。街の灯が地平線を教えて
くれます。地平線が分かつ空と大地。それは広角レンズを
通して見たような世界でした。まさに天球の夜空。
こんな世界があるなんて今まで知りませんでした。

ちょっと視線を上に向けるだけで、知らない世界がそこには
ある。そう考えると本当に不思議です。大人になって何でも
知ってるようなつもりだったのに、実は何も知ってないことに
気づかされてしまったのですから。

まだ自分は何も知らないのだというところから、また
スタートしたいと思います。そのほうがずっと楽しい。
天球の夜空を眺めていると、そんな気持ちになるのです。

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2007.01.18

あと半分ある!

新年にふさわしい文章を、昔書いた日記に見つけました。
あらためて読んでみると、過去の自分から今の自分に
宛てた手紙のように感じました。気持ちも新たに
今年も意欲的にがんばりたいと思います。

(以下原文そのまま)
2003年3月19日の日記
「あと半分ある! 」

先日NHKで放送された「松任谷由実の軌跡」を見た。
この番組は、本人がデビューからの30年の軌跡を
振り返るという内容だった。

その中でとても印象に残った言葉がある。
それは、荒井由実の名前で行なった1996年のコンサートに
ついてのことで、なぜその時期に自分の原点ともいえる
昔の名前で昔の曲を歌ったかを話していた。その言葉が
とても興味深いものだった。以下、ユーミンの言葉を紹介する。
==========================
「今考えてみても折り返し地点だなあとは思います。」
「それ以前の数年、このままやってっても先が見えるなってゆう
感じに襲われたところがあって・・」
「でも折り返しだと思ったら、とたんまた折り返した気がした先に、
先の見えない地平が広がっていたという感じで、また走る気に
なる、そういう時期だったんじゃないかなと思うんですね。」
==========================

この言葉は面白い。まず発想の転換がユニークだ。
自分の限界が見えたと思った時に、それを超えて自らをより
高みに引き上げていく方法を語っている。物事を直線的に
捉えて、先が見えるからといって諦めてしまうのではなく、
「折り返す」ことで、あと半分の道のりを気持ちを新たに進んで
いける。考え方ひとつで人はどうにでも変われるものなのだ。

そして「折り返し」という考え方のさらに興味深いところは、折り
返した以上すでに道のりの半分を過ぎたことを認めている点に
ある。これって意外に難しいことだと思う。アーティストとしての
才能や活動がすでに半分終わってることを宣言してるわけ
だから・・。それができるのはそれまでの自分のやってきたこと
をきちんと評価してるからだと思う。もう先がないと焦るわけでも
なく、まだまだこれからだと強がるわけでもなく、自分が立って
いるところをしっかり見極め、そこからまた一歩を踏み出して
ゆく姿勢はあくまでも自然体であり、なおかつ力強い。
できるものなら私も見習いたい。

人生70年とすれば私もちょうど折り返し地点にいることになる。
まあ明日のことも分からないわけだし、実年齢は関係ないかも
しれないが、私も結婚して子供ができて~など、それまでの
人生を振り返ってみると、やはり「折り返し」を過ぎたあたりに
いるのだろう。人生半分終わったと認めるのは勇気のいること
だけど、今まで生きてきた自分をきちんと評価してあげよう。
そうして折り返した先には、先の見えない地平が広がってくる
のだから。まだ開けてない未来があと半分ある!

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2006.09.03

近くの笑顔に育てられ

先日、バレエの発表会を見に行きました。
我が家は5歳と5ヶ月の息子2人のみ。バレエにはおよそ縁が
なさそうですが、なぜ見に出かけることになったのか、まずは
そこから今回はスタートです。

まず誰を見に出かけたのか?それは我が家が契約してる
駐車場の管理人の孫であるお嬢さん2人です。
ではどのような経緯で今回のような出来事が起きたのか?

そこの駐車場代は振込みではなく、直接払う決まりになって
います。ユースケが生まれてからは、駐車場代を払うたびに
ユースケを連れて行っていました。駐車場の管理をしてる
おじさんとおばさんは、いわばユースケの成長を間近で
見ていた人ということになります。

そこのお宅でときどき孫であるお嬢さん2人が顔を出すことが
ありました。当時は幼稚園生でした。今ではどちらも小学生の
お嬢さんです。ユースケを連れて行くと、いつも可愛がって
くれました。数ヶ月前、バレエの発表会の練習をしていると
いう話を聞き、ジョン太が興味を示しました。
見に行ってみたいなあと。

そんな話を、駐車場のおばさんにすると喜んで、良いですよと
言ってくれました。バレエなんてなかなか見る機会もないし、
知り合いの人が出るなら、興味も沸きます。そんなわけで、
生まれて初めてバレエの舞台を見ることになりました。

バレエって興味なかったけど、テレビで見るより、実際に
間近で見ると、伝わってくるものがあって、楽しい体験を
させてもらいました。バレエスタジオの発表会なので、
ちっちゃい子どもたちも多く、見ているだけで可愛らしく、
また上級クラスになると、その軽やかな動きに魅了されます。
ジョン太は、我が家が男の子じゃなく女の子だったら、絶対
バレエをさせるのに!と言ってました(^^;)。

後日、駐車場代を払いにいくとき、お礼のちょっとした
お菓子の詰め合わせを持っていきました。おばさんは
私たちを笑顔で迎えてくれ、ひとしきりバレエの発表会の
話で一緒に盛り上がったのでした。

こんな生活も悪くないなと思います。もし私が独身であれば
近所づきあいなんて、たぶんしなかったでしょう。きっと
面倒くさいだけだと思ったに違いありません。でも結婚して
それなりに年もとり、ふと気づくとこんなやりとりがとても
嬉しい自分に気づくのです。私なら仕事仲間と、ジョン太なら
ママ友と、必要があるから仲良くなる、それは当り前のこと。
そうじゃなくて、本来ならばすれ違うだけの人、そんな人と
ふとした拍子に心を触れ合わすことができたとき、なぜか
満たされた気持ちになる自分がいます。幸せを感じるのは
こんな瞬間です。

私たちがここに引越したときは、知り合いなんていなかった
のに、気がつけば近くに住む人たちの笑顔に育てられ、
見守られています。年に数回頼むベビーシッターのおばさん、
散髪屋のおじさんおばさん、家と駐車場の間にある修理工場の
おじさん、そしてもちろん駐車場の管理人のおじさんおばさん。
みんなの善意で我が家の子どもたちはすくすく育っています。
我が家は転勤族なので、いつかこの土地を離れる運命です。
でもどこに住もうと、人との出会いを大切にこれからも日々を
送っていきたいと思います。そこでの出会いが、そんな笑顔が、
私たちをどうしようもなく嬉しくさせるのです。

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2006.07.19

タオルケット平和論

寝室にて。ユースケが私にこんな質問をしました。
「ユースケは、パパのタオルケットが欲しくて、
 パパは、ユースケのタオルケットが欲しい。
 そんなときどうする?」

しばらく考えてこう答えました。「交換する?」

「違うよ。答えはね・・」
ユースケは自分のタオルケットを私に少し掛けてくれ、
そして私のタオルケットを少しだけ自分に引き寄せました。

そうか、これが答えだよな・・。
眠りにつこうとするまどろみの中、軽い驚きを覚えました。
世界が皆こんな考えをするなら、きっと世の中は平和になるはず。

ユースケは私にこう言いました。
「ほら、こうすれば仲良しだよ」

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2006.03.01

シェアリング

2月27日は結婚記念日でした。

結婚について以前書いた日記があるので、
このblogに再掲載したいと思います。

(以下原文そのまま)
2001年7月12日の日記
「シェアリング」

美味しいものを食べに行ったとき、私たちは必ず違うものを
注文する。そしてお互いの料理を一口食べさせてもらうのだ。
そうすることで違う味を楽しめる。私たちはずっとそうしてきた・・。

「何が2人を結婚に踏みきらせたの?」と、
独身の友達から、将来の参考にと聞かれたことがある。その時は
どう答えていいのか自分でもよく分かってなかった。性格も違えば、
考え方も違う私たちだ。結婚に踏みきる理由とは何だろう。

「楽しいこと」について考えてみる。
私は"楽しいことは自分でつくる"派だ。楽しいことを自分で考えて、
つくりあげるのが好きだ。ある意味凝り性ともいえる。他人が用意
してくれたものはそれなりに楽しいけれど、自分たちでつくりあげた
ものはそれよりもっと楽しい、と考える。
彼女は"楽しいことは体験する"派だ。旅行、英会話、食べ歩き
などの趣味に加えて、1日体験入学なども好んで参加する性格で
ある。そういえば牛の乳しぼりもやってみたいと言っていた。
こんなふうに私たちは違っている。

だからいいのだと思う。
彼女と出会って今まで知らなかった楽しさが私の中で広がった。
自分だけだったらきっと知らない楽しさだったろう。

最近、シェアリングという言葉を聞くことがある。分け合うこと、
共有することという意味らしい。結婚をシェアリングというキーワードに
当てはめて考えてみる。結婚してまず変わるのは、時間もお金も
それまでよりずっと少なくなることだ。そういったものを分け合うことが
必要になり、それは結婚するがゆえの不自由さといえるだろう。
それでも多くの人が結婚してしまう。それはなぜか?

こんなプロポーズの言葉を何かで読んだ記憶がある。
「あなたの残りの人生を僕にください」
男らしいプロポーズと思う。俺について来い的な頼もしさを感じる。
そういうのもいいかもしれない。だけど相手が「はい」と返事をしたら、
プロポーズした人は、相手の残りの人生を背負ってしまうことになる。
それはけっこうな重荷になるのではないだろうか?
そして「はい」と答えた人は、自分の残りの人生を、相手に預けること
になる。それは果たして幸せなことだろうか?
もし同じ言葉を口にするとすれば、私ならこう言い換えるだろう。
「あなたの残りの人生を僕にもください」

結婚する理由とは、相手の人生も生きてみたいと思うことでは
ないだろうか。その人の生き方も生きてみたい。美味しいものを
食べに行ったとき、お互いの料理を少し食べさせてもらうのと同じ
なように。それは相手の人生を背負うのではなく、分けてもらうと
いうことだ。

もし1人で生きていくとしたら、それは納得のいく人生かもしれない。
だけど、それは自分の知ってることしか知らない人生だ。
自分の人生を生きながら、相手の人生も生きてみたい。
結婚はそれができる。だからきっと結婚するのだ。

結婚は、あんなふうに生きてみたいなと思える人としたい。
それだから、お互いの人生(価値観)は魅力あるものであって欲しい。
分け合うことは、減ることではなく、増えることだと考えたい。
分け合うことで、人生は2倍になる。
結婚って、たぶんそういうこと。

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2006.01.10

ばら色の未来

新年にふさわしい話題を書こうとして思い出したことが
あります。去年の秋のことです。1泊2日でUSJに遊びに
行きました。いっぱい遊んだ後、オフィシャルホテルに
泊まって、ユースケを寝つかせていたときの話。

ユースケにUSJの感想を聞いたらこんなことを耳元でささやきました。
「でもね、未来を見たよね。楽しかったから安心したよ」
耳を疑いました。でも本当にそう言ったんです。
ユースケには、USJが未来の国に見えたのかもしれません(笑)。

疲れたのかユースケはすぐに寝てしまい、私もまた眠りにつきながら、
それもいいかもしれないなと思い始めました。USJのような未来が
あってもいい。未来はつまらないものだと誰が決めたのだろうか?
ばら色の未来は、まず想像することから始まるのではないだろうか、と。

現実を見れば、とても楽観的な気分になれないのは分かります。
でも、足元しか見ないようでは、きっといつか行き詰まるでしょう。
理想や夢を語ることは何も恥ずかしいことではなく、
みんなが上を向いて歩くようになれば、きっと未来は素晴らしい
ものになるはず。子どもたちにそんな未来を残してやりたい。

なんて、そんなことを考えた翌朝のこと。
ユースケは私にこう言いました。
「今日からここが新しいおうちだね」
おいおい、ここはホテルだってば。

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2004.11.20

スタンド・バイ・ミー

言葉は命である。
哲学者の池田晶子は、著書「あたりまえなことばかり」で書いてます。

 死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、
 医療ではなくて言葉である。宗教ではなくて、言葉である。

この文章を読んだときの衝撃を忘れることができません。
なんて力強い言葉なのだろうか。人が人らしく生きるために
必要なのは医療や宗教ではなくて、言葉であると気づきました。

こんなことを書くのは、11月10日付の読売新聞の「余命 輝いて生きる」の
連載第2回「傾聴で孤独感軽く」という記事を読んだからです。

ここでは末期がん患者のための傾聴ボランティアが紹介されています。
そういうボランティアがあると初めて知りました。傾聴とは、相手に寄り添って
話を聴くこと。ただ聴くだけのボランティア・・。なんだ簡単じゃないかと
思ってはいけません。この人たちは聴くことのプロです。
傾聴で大切なポイントは3つ。
1.自分の意見を言わない。2.同じ目線で接する。3.相手の話を遮らない。
「相手に近づき、話に共感しようとする努力が大切」 なのだそうです。

末期がん患者にとって、自分の話を聴いてもらえることは、孤独や不安を
やわらげる何よりの薬になるでしょう。そのときに必要なのは、意見や
批評ではなく、肯定なのだと思います。末期がん患者の話を受け止めて、
受け入れる。それはすなわち、その人の人生を認めてあげること。
それが傾聴ボランティアの本質だと思います。

嬉しかったこと、悲しかったこと、楽しかったこと、つらかったこと。
誰の人生にもドラマはある。普通の人の、でもその人だけの生き様を
誰かが聴いてあげること。そして覚えてあげること。それはきっと意味の
あることだと思うのです。なぜなら言葉は命だから。言葉を受け止めて
あげることは、その人の命を受け止めてあげることと同じです。
それが傾聴ボランティアの仕事なのだと思いました。
相手に寄り添って聴くだけ。ただそれだけで人は救われます。

ベン・E・キングの歌をふと思い出しました。
「スタンド・バイ・ミー」には確かこんな意味の歌詞が出てきます。

「暗くなって月の光しかなくても君がいるなら、恐くないよ」
「君がそばに寄り添ってくれるだけで僕は強くなれるんだ」

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2004.09.19

祈るということ (追記)

何気なく読み始めた新聞のコラムの最後の一行を読んだとき、
思いもかけなかった言葉に出会って衝撃を受けました。
それはこんな言葉。

「祈りとは、諦めないということである。」

9月12日付の西日本新聞の「いまこの時代に」というコラムで
作家の村田喜代子が寄せた文章です。全文を紹介したい程、
興味深い内容でした。作家だけあって文章の構成も巧みです。
知人の娘が、看護学校で教師に聞いた話から始まります。

 最近のアメリカでは死体が腐りにくくなったという。
 食品を保たせるための防腐剤が人の体に蓄積される。
 不気味な話だ。死体は速やかに腐らねばならない。
 それが自然というものだ。

村田喜代子はこのコラムで、人間の愚行について書いています。
「地球白書・2000~01」や、「百年の愚行(紀伊国屋書店刊)」
という本を紹介しながら、人間がおこなった自然と人への愚行を
厳しく見つめます。国家と民族、宗教の争いなどの一方で、身近な
ところで行われている愚行。私たちもそれに手を貸している現状は
決して人ごとではありません。産業廃棄物、酸性雨、動物実験・・。
便利を求める私たちは、自然界にとって恐るべき猛威ではないかと
このコラムでは問いかけています。

 これからの百年にいったいどんな未来があるのか。
 私が営むような書く行為に、どんな価値があるのだろう。

そう嘆いたとき、村田喜代子は自分が書いた小説の登場人物を
思い出します。死んだ後、神となった主人公が子孫を見守る話で、
この神は非力で何の神通力も持たない。いったい神とは何であろうと
自らを問い直す主人公。

 「神とは、目のようなものではないか・・・。永遠に人間界を見つめ続ける
  尽きぬまなざしのようなものではあるまいか。」

そう考えた主人公の祈りにも似た悲しみ。
村田喜代子はこの後こんな文章でコラムを結んでいます。

 これこそ力はなく心のみ溢れるばかりの、人間の祈りではないか
 という気がしたのだった。そして祈りとは、諦めないということである。

読み終えたとき、衝撃を覚えました。私が持っていた「祈り」という
言葉のイメージは静的なものだったので、「諦めない」という
力強い言葉の響きに驚きました。目を見開かされた思いです。
そう!諦めてないから人は祈るのだ。

以前、私が書いた記事「祈るということ」を思い出しました。
人として、この世の中で一番尊い行為は「祈る」ということだと書きました。
力はなく心のみ溢れるばかりの人間の祈り。しかし、祈りとは諦めない
ということだと分かりました。平和を願う祈り。そこに力はないかもしれない。
でも祈り続ける限り、私たちに希望はあります。
祈りとは、諦めないということだから。

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2004.08.18

祈るということ

「みなさん、世界の方、どうぞ、平和な、一日(いちじつ)も、
平和な日が、訪れますように。ただただみなさん、仲良く、
日々(にちにち)を、過ごさせていただきますように・・」

こうインタビューに答えたのは岡村 迪子(みちこ)さん(95歳)。
終戦記念日の8月15日、戦没者追悼式でのことでした。

その日テレビのニュースでその映像を見ました。
夜、寝るときになぜかその言葉が思い出されました。
頭の中で繰り返すのは「ただただ・・、ただただ・・」と、
そこばかり。なぜこんなに気になってしまうのだろう?
翌日、私はこの岡村 迪子さんのことを調べるために、
ネットの中を駆け回っていました。

岡村さんは東京の日本武道館で行われた「全国戦没者追悼式」に、
遺族の参列者として広島から出席しました。遺族の参列者は
高齢化が進み、「戦没者の母」としては今回ついに岡村さん一人
だけとなりました。岡村さんは今回初めて参列したそうです。
最高齢であり、また唯一の「戦没者の母」の参列者として、
インタビューを受けていました。

岡村さんは「戦没者の母」。広島の原爆で2人の子供を亡くした
そうです。長女(当時18歳)は、幼子のいた岡村さんに代わって
爆心地近くの建物の解体作業に行き、そこで被爆、命を奪われ
ました。長男(当時14歳)は近くの学徒動員先で閃光を浴び、
歩いて自宅にたどり着いたが、「お母ちゃん、やっと帰ってきたよ」と
いう言葉を残して息絶えました。
「来年で60年というけれど、私にとっては昨日のような気がします」

ネットを駆け回り、岡村さんについて一通り調べ終えて、
そこでまた立ち止まって考えるのは、やはり冒頭の言葉でした。
どうしてこんなにあの言葉が気になるのだろうか?

腰を曲げ、杖を突き、年老いた「戦没者の母」が訥々と語るのは、
誰をも憎まず、ただただひたすらに平和を願う祈りの言葉でした。
人として、この世の中で一番尊い行為は「祈る」ということだと
思います。冒頭の言葉が胸に迫るのは、だからなのかもしれません。

世界がこの言葉を噛みしめればいいのに。
そうすれば戦争なんてものは無くなるかもしれない。

戦争で犠牲になった人たちの魂が安らかでありますように・・。
岡村さんの祈りが世界中の人たちに届きますように・・。
私も祈ります。

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2004.06.12

スピードと記号化

手紙を書くときに、顔文字を使わないと不安になる人が
いると聞きました。ちゃんと相手に気持ちが伝わってるかどうか
顔文字を使わないと不安になるそうです。
キーボードで打つキーを組み合わせて作る顔文字なのに、
それを手書きで書く不思議さ。そうかそんな時代になったのか、
と素直に驚きました。個人的には顔文字に頼らず、できるだけ
自分の言葉で気持ちを伝えたいと私は考えています。
だからといって顔文字が不要だとは思ってません。

顔文字がコミュニケーションとして必要なケースもあるはずです。
例えばチャット。1~2行の言葉のやり取りで行われるチャットに
自分の気持ちをくだくだ書く余裕はありません。伝えたい内容を
書き、それを書いた意図が誤解されないように、気持ちを伝える
顔文字を添えるのが、チャットをスムーズに進行する上で有効な
手段といえるでしょう。

そこまで考えて、ふと気づきました。
顔文字を使う必要があるものと、そうでもないもの、その違いは
「スピード」にあるのではないか?スピードが速くなればなるほど
そのスピードに乗せられるものは限られてくる。だからチャットでは
伝えたい内容が優先されて、それに伴なう感情は顔文字という
記号に置き換えられることになる。そうしなければチャットが求める
スピードについていけないからです。

本来、気持ちを伝えるためには言葉を使います。言葉も記号では
ないかと言われたら確かにそうです。だけど、単語を組み合わせる
ことで文章をつくり、文章を組み合わせることで、自分の気持ちを
忠実に伝えようとすることができます。その組み合わせは無限の
可能性を秘めています。だからこそ言葉は面白い。
気持ちを単純な記号に置き換えるのは、なんだか味気ない感じが
します。ゆるやかなスピードならそれに合わせて語れる言葉も、
スピードが速くなればなるほど言葉は省略され、記号化されるのは
避けられないことです。目の前をめまぐるしく流れるものから何かを
読み取るには、言葉を尽くして語ったものより、パターン化された
記号のほうが分かりやすい。そうして「思い」はそぎ落とされていく。
顔文字だけに限りません。これはスピードを求めるすべてのものに
当てはまる現象です。置き換え可能なものはパターンとして記号化
されていく。その背景にあるものは、ばっさり切り捨てられて・・。
その結果、この社会では何が起きているのか?

スピードに慣れたとき、私たちは記号を使い始めます。
言葉で表現できる時でも、便利な記号を使いたくなります。
でも、「思い」は、そんな簡単に記号に置き換えられるものなのか?

昔に比べれば、あらゆるもののスピードが速くなっています。
それを否定して生きていくことは現実的ではありません。
ただなにもかも速くなれば良いとは思わないし、自分の意思で
スピードをゆるめることも必要でしょう。

大切なものはどこにあるのか、忘れず考え続けたいと思います。
日々流れていくスピードの中で。

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2004.06.05

言葉美人

「ネット」と「言葉」をめぐる事件が起きている。
まったく関係はないのだけど、以前書いた日記を思い出しました。
当時「タオの日記」というタイトルで、思いつくまま考えたことを
日記形式で書いていました。ネット・言葉・人柄 について
書いた内容があったので、ここに再掲載します。

(以下原文そのまま)
2003年7月5日の日記
「言葉美人」

人柄とはいったい何だろうか?どうやって決まるものなのだろうか?
最近、そんなことを考えている。

容姿、服装、表情、声のトーン、言葉の使い方、話題の選び方など、
要素はいろいろあるが、おそらくそのすべてを瞬時に私たちは判断
してるのだろう。そこから感じ取れる雰囲気がその人の人柄なのだ。
優しそーだとか、怖そーだとか。本当のところは分からないけど、
そうやって表面に現れてくるものを私たちは読み取るしかない。

ネットの世界では実際には会ったことがない人も多い。
HPを運営していれば、顔見知りの友達も遊びに来てくれるけど、
そうではなくHPを通して知り合いになる人も多くなる。
その場合、相手のことはもちろん知らないわけで、
どんな人だろうと想像するしかない。
プライバシーの問題もあるので、写真を公開してなければ、
あとはその人の言葉から読み取るしかない。
限られた情報の中で、相手の人柄を推し量ることになる。
それは言葉の使い方や、話題の選び方、考え方などだ。
ぶっきらぼうな書き方をしてれば、ぶっきらぼうな人に思えるし、
丁寧に返事をしてくれる人なら、きめ細やかな人だと思える。
言葉からいろんなものが見えてくる。

私はネットの世界にリアルな世界をそのまま持ち込む必要は
必ずしもないと思う。ネットの世界はもうひとつの人生を生きる
ようなものだ。現実をそのままネットに持ち込んでもいいし、
そうでなくてもいい。
例えば引っ込み思案な人がいて、現実はなかなか社交的に
なれないけど、面と向かい合わないネットの世界ならはっきりと
物事が言えたりする。他人に迷惑を掛けるなんていうのは
論外だが、こんな風になりたいと思う自分がいて、それが
実現できるならリアルとネットは同じでなくていい。
現実の世界ではうまく表現できないだけで、でも確かに
自分の中にそういう自分はいるのだから。
そしてそうすることで現実とうまくバランスを取る人もいるだろうし、
それがきっかけで現実を理想に近づけていく人もいるだろう。

人柄とは、あくまでも他人が受けるその人の印象でしかない。
性格を直すのは難しいけど、印象は変えることができる。
そのためにネットの世界で必要なのは言葉なのだ。
ちょっとした言葉の使い方や、話題の選び方、考え方だ。
その言葉が新しい友達をつくる。

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2004.05.28

言葉を尽くす

言葉について考えることがよくあります。
「良い文章」と「上手い文章」についても。
この2つは似ているようでたぶん違います。
「上手い文章」は書けなくても「良い文章」なら
誰でも書ける、私はそう思っています。

そもそも私たちはなぜ書くのか?なぜ書きたいと思うのか?
それは自分の想いや考えを誰かに伝えたいからでは
ないでしょうか?もしそうなら「良い文章」とは、自分の想いや
考えが相手に伝わる文章ということになります。

私はいつも書くときにこんなことを考えてます。
頭の中で考えていることがそっくりそのまま取り出せたら
どんなに良いだろうか、と。自分の感じたことが100%
ストレートに伝わるなら、きっとそれを読んでくれる人も、
私と同じように感動したり驚いてくれるはず。
一緒にその想いを共有したいのです。
そうなるためにはどうしたら良いか、そればかり考えています。
「上手い文章」を書こうなんてのは二の次です。

では「良い文章」はどうしたら書けるのか?
実はそんなに難しいことではありません。
「分かりやすく読みやすい文章」を書く気持ちがあれば大丈夫です。
相手に伝わる文章とはすなわちそういうものではないでしょうか?

でも、ここで勘違いしたらいけないのは100%相手に伝わる
文章など存在しないということです。あなたが私でないのと同じ
ように、考えていることが100%そのまま相手に伝わることなど
あり得ません。ただ少しでもそれに近づくようにすることはできます。
この文章でちゃんと伝わるだろうか?とか、もっと別の表現のほうが
伝わるだろうか?など。そうやって推敲することで、自分の想いや
考えを忠実に表現しようとすることはできます。それが大切なのだと
思います。格好つけたり、誇張したりする必要はありません。

ところで「上手い文章」とはどういったものでしょうか?
私は「上手い文章」とは「的確で簡潔な文章」だと考えます。
10あるものを語るのに、10は書かずに、残りは行間から
想像させる、そんな文章です。ただ、そんな才能はなくても
相手に伝わる文章は書けます。書こうとすることはできます。
例えば同じことを書こうとしても「上手い文章」を書く人なら
たった1行で表現できるかもしれません。でもそうじゃない人だって
言葉を尽くせば、同じことを表現できるはずです。
原稿用紙何十枚になったって構いません。課題図書の読書
感想文じゃないんだから、制限なんてありません。過不足なく、
自分の想いや考えを伝える努力をすること、これが大切なのだと
思います。そこから先は、読む人にすべてを委ねるしかありません。

100%そのまま相手に伝わることはあり得ません。
50%しか伝わらないことだってあるでしょう。
でも、もしかしたら120%伝わることだってあるかも。
自分の想いや考えが、響きあい共鳴して、ふくらみ大きくなる。
そんな幸せな出会いが待ってるかもしれません。

私は言葉の力を信じます。

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2004.01.19

「聞く力」

先週読んだ西日本新聞の記事に面白いのがあったので紹介します。
と、書いたもののweb上で探すけど見当たりません。
コミュニケーションとしての「聞く力」を各界有識者に聞くというもので、
「聞く力 ~コミュニケーション」というシリーズです。
その1回目で斎藤孝が書いたものが面白いんです。
※斎藤孝の本を私は読んだことないのですが、「声に出して読みたい
日本語」などがベストセラーになってます。

この回で斎藤孝が書いたものを全文引用したいぐらいなのですが、
そういうわけにもいかないのでかいつまんで書くことにします。

 「っていうか」という前置きは自分の話だけをしたい者同士には便利な
 言葉だけど、社会に出ると「あなたの言っていることには関心ありません」
 というメッセージと受け取られて嫌われる。

 話をしている人を「ボールを持った状態」と考えると、自分だけ球を
 持っていてはゲームが進まないのは当然で、何人かで球を回すから
 こそ面白い。

まだ色々なことを書いててどれも興味深かったのですが、私はこの
「ボール」の話が面白かったです。会話が弾むとなぜ楽しいかが、
これで分かります。相手の話をよく聞いて(ボールを受け止めて)、
会話をつなげる(ボールを投げる)ということですね。これがポンポンと
つながれば楽しいし、相手に投げ返すだけではなく、他の人に球を
うまく回すことが出来ればなお面白い。それは難易度が上がるから
ですね。会話というのはみんなで成立させるゲームのようなものです。

でも、こうも書いてます。

 相手の言葉じりだけをとらえて反応してしまう人はたくさんいます。
 要旨を取るということが今ないがしろにされているんじゃないでしょうか?
 素直に相手の言いたいことの要旨を取る-こうした「やわらかく聞く」と
 いうことがもっと意識されていい。

最後に斎藤孝はこんな言葉で結んでいます。

 自分の話したいことを相手の文脈に乗せていく「沿いつつずらす」技が
 対話には必要ですね。

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2003.12.28

心が弱いから

元ハンセン病患者宿泊拒否が投げかけたもの

セーラー服の女子生徒が立ち上がって、質問した。
「人間はなぜ差別をするのですか」

阿部さんはためらわず答えた。「心が弱いからです」

新聞の記事を紹介したいと思います。ハンセン病の記事です。
この短い記事の中にハンセン病問題の多くが語られてるような気がします。
「家族や親類に迷惑がかかるから」と偽名で生きてきた人たち。
そして死んでなお本名を語れない人たち。誤解と差別。
どんな思いでこの人たちは生きてきたのでしょうか?

この記事で印象深いのは「人間はなぜ差別をするのか」という問いに
元ハンセン病患者の方は「心が弱いから」とためらわずに答えたこと。
私は言葉を失いました。ふいにこちらの胸を衝かれた気がしたのです。

この言葉をどう解釈すれば良いのでしょうか?人間というのは心が弱いから
仕方ないのですよと慈愛に満ちた言葉なのか?それとも人間とはそういうもの
だという諦めなのか?それとも人間という心の弱い生き物に対する憤りから
くる言葉なのか・・。この言葉はあまりにも重すぎる。他人のどんな解釈や憶測も
寄せ付けない響きを感じるのです。おそらくは誰にぶつければよいか分からない
この問いをこの人はずっと自分の中で繰り返してきたのでしょう。
私たちは、この人の長い年月をかけて出した答えをただ真摯に受けとめる
しかありません。

それでは私たちはこれからどうしたら良いのでしょうか?
まず私たちは心の弱い人間だと自覚すること。
そしてその心の弱さは差別を生むということを知ること。
「どうしたら差別をなくせるのか?」
その答えは簡単です。それは心の弱さに負けない人間になること。
でもそれを実践するのはとても難しいことです。どうしたらできるのか?
それを考え続けることが大切なのだと思います。

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